柏原藩織田家下屋敷跡

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関連リンク- 柏原藩織田家上屋敷跡

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP513・コマ番号300/553から柏原藩屋敷の変遷について記載されています。P514・コマ番号301/553「下屋敷 浅草砂利場 浅草区田町一丁目」がこの地になります。

織田信敬
[織田 信敬(おだ のぶのり)は、天保7年(1836年)5月28日、肥後国宇土藩9代藩主・細川行芬の三男として誕生した。初名は之与。通称は剛三郎。
弘化4年(1847年)2月26日、柏原藩7代藩主・織田信貞末期養子として家督を相続する。嘉永2年(1849年)10月1日、12代将軍・徳川家慶御目見する。同年12月16日、従五位下出雲守に叙任する。嘉永6年(1853年)7月25日、江戸において死去、享年18。なかなか相続人が決まらず、翌嘉永7年(1854年)2月10日に死亡を届け出た。黒田長元の四男・叙丸が末期養子として家督を相続した。
信敬の死後、柏原藩の重臣は織田家の血を引く鶴姫に再度婿養子を迎えることを考えた。しかし鶴姫はそれを拒み、髪を切って亡き夫の菩提を弔う一生を選択したという。  (wikipedia・織田信敬より)]

織田信民
[織田 信民(おだ のぶたみ)は、天保11年(1840年)2月2日、筑前国秋月藩10代藩主・黒田長元の四男として誕生した。母は黒田長韶の娘・慶姫。幼名は叙丸。
安政元年(1854年)4月14日、柏原藩8代藩主・織田信敬の末期養子として家督を相続する。安政2年(1855年)12月16日、従五位下・山城守に叙任する。文久3年(1863年)3月30日、幕府から京都警備を命じられる。同年9月5日、参内する。元治元年(1864年)2月22日、幕府から帰藩の許可を得る。同年2月28日、参内する。同年5月5日、従五位上に昇進する。同年11月14日、町人を住まわせていたとして、江戸の下屋敷を没収される。
慶応元年(1865年)6月10日、柏原において死去、享年26。柏原・徳源寺に葬られた。2代続けての当主の早世であった。嗣子がなかったため、その後は山崎治正の三男・治安が養子に迎えられて継いだ(織田信親)。  (wikipedia・織田信民より)]

織田信親
[織田 信親(おだ のぶちか)は、交代寄合(のち備中成羽藩主)・山崎治正の三男として誕生した。慶応元年(1865年)12月14日、柏原藩9代藩主・織田信民の末期養子として家督を相続する。8代藩主・信敬は細川行芬の三男であり、信親の実父・山崎治正の継室は行芬の娘であった。こうした姻戚関係により、信親は織田家の養子に迎えられたと思われる。
慶応年(1866年)12月18日、従五位下・出雲守に叙任する。慶応3年(1867年)11月19日、朝廷の求めに応じて上洛する。翌慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いの際には、新政府軍に加わり、京都御所などの警備にあたる。小大名でありながら、かなり早い段階から新政府側に与している。
明治2年(1869年)6月22日、柏原知藩事に就任する。明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県により免職となる。明治4年(1871年)10月15日、旧領柏原において農業に従事することを願う帰農届を承認される。明治6年(1873年)2月4日、柏原の邸宅が全焼し、一族の千賀正遠の邸宅に移り謹慎する。明治9年(1876年)、宮中侍侯となる。明治17年(1884年)には子爵になっている。  (wikipedia・織田信親より)]

維新の殿様 織田信親(おだ のぶちか)【織田家柏原藩(兵庫県)】⑥

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 今戸箕輪浅草絵図(嘉永六年・1853年)」(絵図下中央・浅草寺右に六郷筑前守上屋敷右に織田剛三郎(織田信敬)が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [45]貮拾貮下(安政六年・1859年)」(コマ番号7/10・絵図中央左下に織田山城守(織田信民)下屋敷が描かれています。)

東京市拾五区区分全図 第十三 浅草区全図 – 特別区協議会」(地図中央の浅草寺右方向・浅間神社右方向、浅草田町一丁目99番からその右下方向13番一までが柏原藩織田家下屋敷跡と思われます。)

織田家の家紋・瓜破紋らしき紋がペンキで描かれている銭湯鶴の湯前のカメラで、カメラ西南西方向が柏原藩織田家下屋敷跡になると思います。