浅草溜

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浅草溜
[浅草溜(あさくさだめ)は、江戸浅草にあった、牢内で重病になった者、15歳未満の者などを収容した施設。品川にも同様の施設があった。
象形町の西、浅草寺から田畑を経て日本堤にいたる路辺にあった。 貞享4年3月、北条安房守が悪党2人を非人頭にあずけ、5月、甲斐庄飛騨守が罪人をあずけたことにはじまり、非人小屋に罪人をあずけおくのが増えたので、元禄12年7月、畑地に2棟の長屋をたてて溜とし、惣板敷きに畳をしき、をおいて煮炊きを自由にさせ、病囚、幼囚を収容し、非人頭の車善七がこれを管した。 溜内は上座、下座をへだてず、朝夕の食事は重病者にはをだした。 溜上番人は毎日、夕七つ時溜内にはいって状態を検した。 薬用は囚人の家から煎じとどけるさだめで、したがって上番人は宿の者と顔見知りとなるから、囚人が宿々へ内通がましいことをしないおきてがあった。  (wikipedia・浅草溜より)]


[溜(ため)は、江戸時代において、病気になった囚人などを保護する施設である。
代表的な溜としては、江戸の浅草と品川、京都の悲田院村、大坂の高原などが知られているが、ここでは江戸の溜について述べる。
溜は千束の近くに存在した浅草溜と南品川(現在の青物横丁駅付近)に存在した品川溜があり、浅草は車善七、品川は松右衛門の両非人頭が管理していたため、非人溜とも呼ばれていた。溜を管理する役人は全て非人で構成されており、選出も非人頭に一任されていた。
溜にあたる施設が設けられたのは貞享4年(1687年)。善七や松右衛門が町奉行から囚人を預かる施設を建設したことに始まる。
当初は行き倒れ無宿が主であったが、取調べ中の者も収容することになり、施設が手狭になったため、善七が元禄2年(1689年)に900坪、松右衛門が同13年(1700年)に500坪の土地の提供を江戸幕府から受けて完成された。
収容されていたのは前述のとおり、伝馬町牢屋敷にて重病になった囚人、遠島に値する重罪を犯したが15歳に達していない者、追放刑を受けたが身元引受人がいない無宿などが対象だったが、主人や親を殺傷した者(逆罪)は病気になっても収容されなかった。
基本的には病人を預かる施設であることから伝馬町牢屋敷よりは遥かに環境の良い施設だったようで、浅草では毎朝1回、品川では毎日1回医師の検診が行われていた。  (wikipedia・より)]

[車 善七(くるま ぜんしち)は、江戸時代の江戸浅草の非人頭が代々世襲した名前。寛文6年(1666年)以降は、江戸の新吉原の隣接地に移され、900坪の土地に広大な住居を構えていた。配下の非人小屋は300軒を超え、小屋が持つ勧進場からの収入で生活を営んだ。江戸の非人頭の中では最も勢力を誇っていた。
また、病囚等の保護を行う浅草溜の管理を任されていた。  (wikipedia・車善七より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション - 〔江戸切絵図〕. 今戸箕輪浅草絵図(嘉永六年・1853年)」(絵図中央・浅草寺と吉原の間に溜が描かれています。また吉原左に描かれている非人の場所に車善七の居住地があった。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [45]貮拾貮下(安政六年・1859年)」(コマ番号7/10・絵図上に吉原が描かれ、吉原右角に浅草溜が描かれていますが、この場所は非人頭車善七の居住地で、この下方向浅草寺から日本堤への道上に浅草溜と記述されています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [43]貮拾貮上(安政六年・1859年)」(コマ番号9/10・絵図上左方向、六郷筑前守(本荘藩)上屋敷の右に浅草溜が描かれています。六郷筑前守上屋敷の左下の浅間社は浅草富士浅間神社になります。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 武州豊島郡千束畑絵図」(善七居住地と溜が描かれています。)

国立国会図書館デジタル化資料 – 浅草溜絵図(天保四年・1833年)」

カメラ位置は浅草四丁目交差点で、カメラ南西方向に浅草溜があったようです。