海禅寺

マーカーは海禅寺です。

海禅寺
[海禅寺(かいぜんじ)は、東京都台東区松が谷三丁目にある臨済宗系の単立寺院。かつては、臨済宗妙心寺派に属する禅宗寺院で、大雄山と号し、寛永元年(1624年)神田明神の北、妻恋に草創。江戸における妙心寺派触頭のひとつであった。振袖火事の後、現在の浅草に移る。蜂須賀家の庇護あつく、世に「阿波様寺」と呼ばれた。 関東大震災で大被害、また東京大空襲では時の住職以下九名が死亡した。 本尊釈迦如来開山・覚印周嘉、開基・曽我主計頭尚祐。海禅寺の称は、下総国相馬郡平将門が創建したとされる同名の寺にちなむという(開山・覚印が同地の出身であった伝えられる)。梅田雲浜の墓があることでも知られる。  (wikipedia・海禅寺より)]

梅田雲浜
[雲浜の号は、若狭国小浜海岸からの由来で名づけたという。小浜藩藩士・矢部義比の次男として生まれ、藩校・順造館で学んだ。天保元年(1830年)、藩の儒学者・山口菅山から山崎闇斎学を学び、その後、祖父の家系である梅田氏を継いだ。小浜で学んだ知識をもって、大津に湖南塾を開いている。天保14年(1843年)には京都へ上京して藩の塾である望楠軒の講師となる。しかし嘉永5年(1852年)、藩主・酒井忠義に建言したのが怒りに触れて、藩籍を剥奪された。翌年、アメリカのペリーが来航すると条約反対と外国人排斥による攘夷運動を訴えて尊王攘夷を求める志士たちの先鋒となり、幕政を激しく批判した。しかしそれが時の大老井伊直弼による安政の大獄で摘発され、二人目の逮捕者となってしまった。捕縛後は京都から江戸に送られたが、取調べでも箒尻(ほうきじり)で全身を打たれる拷問においても何一つ口を割らず、獄中で病死した。これには、拷問での傷の悪化による死因説もある。享年45。雲浜の墓は、全国にまたがり、海禅寺(東京都台東区)・安祥院(京都市東山区)・松源寺(福井県小浜市)に置かれている。 安祥院近くにある、坂本龍馬の墓があることで有名な京都霊山護国神社には雲浜の碑も建てられており、今も雲浜を慕い訪れる人が多いという。(wikipedia・梅田雲浜より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 今戸箕輪浅草絵図」(絵図中央左方向に「海禪寺」が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [43]貮拾貮上」(コマ番号3/10・絵図中央「坂本村」左上に「海禪寺」が描かれています。)

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「海禅寺」(16-41)、「大雄山海禅寺解説・左ページ左」(16-46)
海禅寺(拡大図)

[図会左ページ上に海禅寺が描かれています。]

海禅寺 – Google Map 画像リンク

カメラ北方向が海禅寺参道です。

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