マーカーは山谷堀口です。
竹屋の渡し
[「竹家の渡し」、「向島の渡し」とも称された。待乳山聖天のふもとにあったことから「待乳(まつち)の渡し」とも称される。「竹屋」の名は付近にあった茶屋の名に由来するという。現在の言問橋のやや上流にあり、山谷堀から 向島三囲(みめぐり)神社(墨田区向島二丁目)を結んでいた。付近は桜の名所であり、花見の時期にはたいへん賑わったという。文政年間(1818年 – 1830年)頃には運行されており、昭和8年(1933年)の言問橋架橋前後に廃された。近くの台東区スポーツセンター広場に渡し跡の碑がある。
竹屋の渡し(明治時代)・wikipedia-photo、竹屋の渡し跡石碑(台東区スポーツセンター公園内 2008年3月)・wikipedia-photo (wikipedia・隅田川の渡し – 竹屋の渡し」より)]
[竹屋の渡し跡 台東区浅草7丁目 隅田公園
隅田川にあった渡し船の一つ。山谷堀から 向島三囲神社 (墨田区向島2丁目) の前あたりとを結んでいた。
『待乳の渡し』ともいい, また『竹屋の渡し』とも云う。 明治40年刊の『東京案内』には『竹屋の渡』とあり, 同年発行の 『東京市浅草全図』では, 山谷堀入口南側から対岸へ船路を描き 『待乳ノ渡,竹家ノ渡トモ云』と記している。
「渡し」が待乳山聖天の下にあったこと, あるいは, 山谷堀に竹屋(家)という船宿があったことが その名の由来とされている。
「渡し」の創設年代は不明であるが, 文政年間 (1818-30) の地図には, 「今戸はし」のそばに「竹屋のわたし」の名が見られる。
隅田川にのぞんだ 今戸や 橋場一帯は 風光明媚な地であったという。 文人墨客たちの題材ともなった 今戸橋や山谷堀は, 寛文11年(1671)の地図に, 今戸橋の名があることから, 江戸時代初期には造られていたらしい。 「渡し」は, 昭和の初期, 言問橋が架橋される頃まであった。 平成6年3月 台東区教育委員会 (「渡し碑コレクション/竹屋の渡し」より)]
「東京都立中央図書館 – 隅田川両岸一覧図絵 上、 隅田川両岸一覧図絵 下」より。
竹屋の渡し西岸

竹屋の渡し東岸

「隅田公園山谷堀広場 – Google Map 画像リンク」
カメラ南東方向隅田公園山谷堀広場入口門柱向こう樹木左に竹屋の渡し跡碑があります。
竹屋の渡し跡碑(Google Map 画像)