マーカーは今戸焼 白井です。
[今戸焼
浅草、今戸町。観音様のある浅草の中心部から北東に隅田川を遡り、言問橋を過ぎて左に「待乳山聖天」を眺めながら進むと、大きな建物。「台東区リバーサイドスポーツセンター」、そしてX橋で有名な「桜橋」の袂に出ます。ここが今戸。現在も台東区今戸という町名が残っています。遠い昔はには「今津」という地名だったと言われています。今では暗渠となった山谷掘の水門の辺りは竹屋の渡しの発着場だったそうです。
現在、今戸に残るただ一軒の窯元「白井さん」の工房がスポーツセンターの筋向いにあります。(ただし今戸に残る一軒ということで実際には、葛飾区内には今戸焼屋さんはまだ健在です。)また今戸神社(旧・今戸八幡)の境内には宝暦2年に建立され、文政5年に再興されたという石彫の狛犬一対が残されており、その基壇には、「焙烙屋中」「当町火鉢屋中」「土器屋」の42人の名前が刻まれています。
また「隅田川両岸一覧」や「江戸名所図会」などを見ますと、今戸から北隣の橋場にかけて川沿いにいくつもの「だるま窯」や「ひょっとこの口のような形の窯」、積み上げられた薪の山などが見え、窯業を生業とする家の集まる地域だったことが偲ばれます。 (「今戸焼について①」より。)]
[今戸焼とは、江戸時代から明治時代を中心に、今戸やその周辺で製造販売された焼き物です。今戸焼職人は、瓦・日常生活道具・土人形つちにんぎょう・工芸品などの焼き物を製造販売して、江戸東京住民の需要に応えました。
幕末には、今戸焼を製造する家は50軒余りありました(『本朝陶器攷證』)。しかし次第に今戸焼の需要は減少していきます。さらに今戸周辺の都市化や、震災・戦災などにより、製造を続けた職人たちの多くも、隅田川の東岸、中川・荒川の流域などの周辺地域に移転していきました。
そのような中で、白井家は江戸時代から当地で今戸焼の製造販売をおこなってきました。当地の鎮守、今戸神社(今戸1丁目5番22号)境内の石造狛犬(台東区有形文化財)は、江戸時代の今戸焼職人たちが奉納したものです。銘文に白井善次郎の名がみえますが、その息子清次郎は幕末に独立開業しました。その6代目が白井裕一郎さんです。
白井さんは区内で唯一の今戸焼職人として、母美智子さんとともに、約80種の人形や寺社の縁起物えんぎものの製造販売をおこなっています。
今戸人形は、陶土を練り、型に入れて成形して、乾燥したものを窯で焼き上げ、彩色を施します。狐・狸・あねさま・招き猫・おかめ・福助など、多くの種類があり、長く江戸東京の庶民に親しまれてきた郷土玩具です。 (「今戸焼作り – 台東区」より。)]
今戸焼(拡大図)
葛飾北斎-隅田川両岸一覧 – 20.白鬚の翟松 今戸の夕烟(拡大画像リンク)
[今戸焼(いまどやき)は、東京の今戸や橋場とその周辺(浅草の東北)で焼かれていた素焼および楽焼の陶磁器。江戸時代から明治時代にかけて、日用雑器、茶道具、土人形(今戸人形)、火鉢、植木鉢、瓦等を生産した。言い伝えによれば天正年間(1573年–1592年)に生産が始まるといわれる。(wikipedia・今戸焼より)]
絵本江戸土産 – 今戸瓦窯(拡大図)
隅田川西岸(今戸)
[図会は隅田川両岸一覧図絵からの抜き取りで、左端に>待乳山聖天、竹屋の渡し、山谷堀が描かれています。図会右側に隅田川沿岸の家々に今戸焼用の柴が積まれ、図会スクロールした右端には窯からの煙が描かれ今戸焼の生産場の風景が描かれています。]
カメラ西方向が今戸焼 白井になります。