マーカーはすし鉄 本館です。
すし鉄
[歴史は慶応二年に深川高橋の屋台の鮨屋より始まり現在に至る。お客様に本物の江戸前寿司の美味しさを知って頂く事をモットーに新鮮な材料と一流の技術を誇る当店で江戸前鮨の醍醐味を御賞味下さい。 (「日本橋 すし鉄 本館|〜今夜もやっぱり、キクマサムネ〜 味な店」より)]
江戸前寿司
[江戸前ずし(えどまえずし)・江戸前鮨・江戸前鮓・江戸前寿司は握りずしを中心とした、江戸の郷土料理である。世界共通語となった「sushi」は主にこの「江戸前ずし」を指す。古くは「江戸ずし」「東京ずし」ともいった。江戸前の豊富で新鮮な魚介類を材料とし、一般家庭で作られることがほとんどない、寿司屋の寿司職人が作る寿司である。
狭義に「江戸前ずし」を「東京湾の魚介を使用したすし」、あるいは「明治の始めくらいまでの技法を中心としたすし」とすることもあるが、広義には、東京で特に多く見られる「握りずしを中心とした寿司屋で提供されるすし」全般を「江戸前ずし」という。
江戸の文化が生んだ寿司で江戸っ子が好む寿司で、郷土料理となっている。江戸前の海(現在の東京湾)は遠浅の干潟を抱えた天然の漁場であり、目の前で取れた新鮮な魚介類を新鮮なうちに提供することが可能であった。
江戸前握りずしの創案者は、両国は「與兵衛鮓(よへいずし)」の華屋與兵衛とも安宅の「松之鮨(まつのずし)」、堺屋松五郎ともいわれる。文献的には文政12年(1829年 1827年作句)『柳多留』に「妖術という身で握るすしの飯」とあるのが初出である。
江戸時代末期-明治初期の江戸前ずし
『守貞謾稿』には、玉子、玉子巻き、海苔巻き(カンピョウ)、車エビ、コハダ、マグロさしみ、エビそぼろ、シラウオ、穴子、があがる。冷蔵・冷凍技術のないこの時代のすしは、酢〆、醤油漬け、火を通す、などの下仕事をしたタネばかりであった。天保の末に鮪が豊漁となり、「恵比寿鮨」なる屋台のすし屋が鮪を湯引きし、醤油に漬けてすしに漬けたところ、大いに評判となり、以降江戸前ずしを代表するタネになっていった。しかし当時鮪は下魚とされており、名のある店では使わなかったといわれる。
屋台で廉価なすしを売る「屋台店」が市中にあふれる一方で、「内店」とよばれる固定店をかまえるすし屋では、比較的高価なすしを売った。特に「松之鮨」や「與兵衛鮓」の贅沢さは、時の川柳にたびたび詠われるほどだった。内店では主に持ち帰りや配達ですしを売ったが、「御膳」と書かれた看板をあげた店は、店内の座敷で食事のできるお店である。そして、贅沢を禁じた天保の改革では、200軒あまりの寿司屋が手鎖の刑に処せられることになった。 (wikipedia-江戸前寿司より)]
「日本橋すし鉄 本店 (にほんばしすしてつ) – 東京/寿司 [食べログ]」
カメラ北方向がすし鉄本館です。