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与力・佐久間長敬(弥太吉)家、原胤昭(定太郎)家
[文久2年(1862)の尾張屋版「八丁堀細見絵図」では、南町奉行所与力・佐久間は弥太吉、原は定太郎。両家とも代々与力役を世襲して、与力頭吟味方。弥太吉は佐久間長敬[おさひろ=天保10(1839)-大正12(1942)]、定太郎は佐久間長敬の実弟で母方の原家に養子入りした原胤昭[たねあき=嘉永6(1853)-昭和17(1942)]。
明治維新後、佐久間長敬は明治政府への旧幕府引き継ぎに立ち会う。原胤昭は日本初のクリスマス開催、キリスト教女子学校(原女学校=現女子学院)創設、教誨師など社会教育福祉事業に関わった。両者とも著書多数。現在地は現永代通り道路敷になって特定できない。 (「八丁堀周辺 歴史案内〈茅場町・兜町〉 – nifty」より)]
「丸橋忠弥の捕物で有名な与力の原兵右衛門の屋敷は特に広大で地方領地の収役を支配しており、「代官屋敷」と呼ばれ、蔵が5つも並んで人々の目を引いたといわれています。 (「日本橋茅場町 | 日本橋“町”物語 | 東京都印刷工業組合 日本橋支部」より)]
[慶安事件の時丸橋忠弥逮捕の先手をつとめた与力原兵右衛門の屋敷があった原氏は地方支配にもあたっていたことから代官屋敷の里俗名があった。 (「北島町(近世〜近代) – 解説ページ」より)]
与力の地行所沿革
[東京都公文書館所蔵の、佐久間長敬の『雑考』の中に地行所米収納について下記のように記している。
『創立の際には、金杉村にてその地行所を賜りしが寛永年間上野寛永寺建立に付、替地として安房上総下総のうちにて拝領す。与力は二百石を以って定とす。此収入を凡て検見取を以ってその収穫を定める故に、豊凶によりて増減ありき。小生物、俗に雑税として収入するものは、大豆・小豆・塩・ごまめ等なりき。夫役として百姓の壮年を徴発して召し使う。百石に付き二人の割りなり。
米穀は五斗俵(75kg)を一俵と定め、豊作の時は二百七八十俵を得る事あり。凶作と雖も二百俵を下らず。
地頭に於いて罹災等の事ある時は、地行所へ用命を申付ける事あり。万石に十円程の割りなり。返済は年賦を以ってす。収入庶務を取扱う為、代官と称へ、地行所より一人の総代を呼寄せ、与力筆頭のもの二人之を監督使役し、万事を取扱たり。
収入の時期に至れば、船積を以て八丁堀亀島町の川岸、与力自分持のもの揚場へ積来り、之を処理したり。
同心は一人三十俵二人扶持を定めとす。徳川氏の御蔵前にて之を渡すものとなす。外に拝領は町屋敷なりて、町人に貸し与え、其地代を収入となしたるものなり。』
代官屋敷
八丁堀与力屋敷の代官というのは、地行所から呼寄せられた総代で、何人かの農民を手伝いに使い、筆頭与力の指揮監督を受けていた。南北百人の知行一万石の年貢米は、数か所に分散した領地から収納された。二五〇〇石の領地なら四人の代官がいて、収納米や小物成(雑穀)の収納配給に当たっていたのである。彼らは与力屋敷借地に住んで、代官屋敷と呼称されていたのであるから、あちらにもこちらににも代官屋敷があったわけで、そういう事情を知らぬ人達は、与力の屋敷すべてを代官屋敷と理解していたのも無理ではない。
八丁堀の知行地でただ一か所解っている、行徳村は塩の産地であるから、「小成物」として塩が八丁堀に送られてきた。与力原氏の家では、年に四樽の味噌を作り、千本の大根を漬けたので、「納め塩」だけでは足らず、何俵か余分の塩を買ったそうである。漁村から上がる小成物には正月用品のゴマメもあった。山林のある村からは、正月松飾の松が山のように送られてきた。与力の家にはこうした雑収入が多く家計を潤したから同じ二百石でも御蔵前取の二百石とはよほどの相違があった。与力の家が豊かだったのは、こうした雑収入が多かったからである。 (「郷土室だより(八丁堀襍記)-アーカイブス中央区立図書館 – 42.八町堀襍記二 安藤菊二(PDFファイル:1587KB)」より]
町奉行所の最後
[明治維新の江戸開城の折り南北の町奉行所は、官軍の江戸進駐とともに混乱なく新政府に引き渡された。短期間ではあるがそのままの陣容で市政裁判所として機能し、後に東京府に吸収された。この間の経緯について記された古文書、与力佐久間長敬、仁杉英、原胤昭(定太郎)等編集による「町方与力」が四番町歴史民俗資料館に所蔵されている。この古文書には、当時支配与力の一人だった仁杉八右衛門幸昌も登場している。
また、佐久間長敬の最後の奉行所:官軍への引渡の模様について下記のような記述内容になっています。
『当時の北町奉行は、石川河内守利政、南町奉行は佐久間播五郎信義であった。北の奉行所は呉服橋内の銭瓶橋通り、南の奉行所は数寄屋橋内にあった。与力50騎、同心250人の定員は、そのときも変わっていなかった。
官軍が江戸へ迫って来ると、町奉行の間にも新事態に対する意見が戦わされた。北の石川河内守は、めずらしく気骨のある侍だった。多分恭順に反対だったのであろう。表向き病死となっているが、幕閣と意見が合わず、切腹したようである。河内守に反し、佐久間播五郎は腑抜けであった。人物払底のため偶然奉行になれたような男である。官軍が江戸へ入ったとき、町奉行はこの佐久間しか残っていなかった。河内守の死によって、だいたい両町奉行所は恭順論に統一された。とはいえ永い江戸市民との接触に、与力・同心は特別な感慨を覚えずにはいられない。すぐ転任する奉行とは違うのだ。永い間の世襲によって、町人や鳶や、番太の末に至るまで顔なじみであった。ひとしお感慨ふかいものがある。
大勢すでに決したにかかわらず、なお江戸の与力・同心として節を曲げず、脱走した者も十数人はいた。まだ上野には彰義隊がいた。江戸へ入った官軍は、その町方与力・同心の動向が気になった。結束して抵抗されたら影響するところが大きい。江戸市民との深いつながりから考えて、どんな騒ぎになるか知れず、また、後々の民政もやりにくくなることを知っていた。与力・同心のその背後にある伝統を恐れた。慎重に、若年寄の平岡丹波守を通じて、与力の重立った者4、5人に、品川東海寺の本営へ出頭するように伝えてもらった。下手に呼出しをかけ、かえって感情を害し彰義隊へでも駈けこまれたら大変だと、実はビクビクしていたという。
そのとき召に応じて出向いたのが、南は筆頭与力の佐久間長敬と吉田駒次郎、北も筆頭与力牧山久蔵である。牧山はすでに60余歳の老与力であった。佐久間長敬は11歳から見習に出たという古参与力だし、なかなかきかぬ気の人材でもあった。北の牧山久蔵は、佐久間の兄嫁の親であり、この二人が硬軟ほどよく調和して、官軍との折衝を円滑に運んだ。官軍の本営では参謀の海江田武次と木梨精一郎が応接した。改めて町方の取り締りを委任、南北奉行所の引渡しについて且体的に協議した。官軍の態度は終始友好的であり、与力・同心の特殊性をよく認識していたという。
慶長9年はじめて八重洲河岸、呉服橋に町奉行所をおいてから260余年、ずっと江戸市民を守って来たこの役所も、ついに官軍の手に渡すことになった。町奉行はそれより先、寺社奉行、勘定奉行と共に職を解かれ、今はただ与力・同心が、悲壮な気持で最後の奉行所に屯ろしているにすぎなかった。
月が変った5月15日、上野あたりに砲声がとどろいて、彰義隊の戦がはじまった。が、あまりにもあっけない勝負。夕刻には戦い敗れて潰滅した。町奉行所の引渡しは、それから8日目のことであった。生ま生ましいその日の模様を、『戊辰物語』の記事に借りよう。この記事は当時の古老の聞き書である。いよいよ引渡しの23日は、朝六つ刻(6時)に与力・同心残らず番所に出頭した。大門を八文字に開き、玄関前に左右に分かれて同心150人、羽織袴に大小をさして下座し、玄関の上には与力30人(見習の者5名もいた)列座し、南の奉行だった佐久間播五郎が式台まで出迎えた。この前夜は一同徹夜で、掃除、畳賛障子の張りかえ、帳面、本箱の整理、門の内外、玄関前の敷き砂利にも、塵ひとつないようにしておいたのである。
時刻になると官軍のだんぶくろの兵隊が一人、馬を飛ばしてやって来た。「準備はいかがでありますか」とのこと。「万事整傭してお待ち申しています」と答えると、直ちに引返したが、間もなく受坂委員として判事新里二郎、小笠原唯八、土方大一郎(後の土方久元伯爵)の諸士が、騎馬で供廻りをつれて乗込んで来た。
受取委員の通った隣室には、奉行所所管の千両箱を山のように積んで、その脇には番所に宝物(いわぱ記念晶)として残っているものー例えば福島正則の長穂の百本槍などというものが陳列されているが、官軍は金箱などには一切手もふれず、奉行家来の住居なども見ず、「すべてあなた方にお任せしますから一切よろしきように取締ってください」といって、極くあっさりした態度で引きあげて行った。委員は筒袖のぶっちゃき羽織、たっつけ袴をはいていたが、ひどくていねいで少しも威張るような調子はなかった。
土方は翌24日、朝五つ刻(8時)改めて南へ出て、市政南裁判所主任(旧南奉行)に任じられたことを告げ、且つ、「白分は数年前より国事に奔走し、政事に関しては何ら経験なく、江戸市政の大任は一に諸士の補助によらねばならぬ」と演説した。土方はそれから3日の間、市民総代として町々の名主が礼服を着て出頭し賀詞をのべるのを受けた。これも奉行新任のときの礼式で、番所受取りの当日も、すべて慣例により、官軍方は一同うち揃って与力全部に一々面接し、ついで囚獄石出帯刀、それから広問で与力侍座の上、同心一同の面謁を受けた。
奉行所明渡しのその日、南の与力の中に原胤昭(定太郎)翁もいた。原翁は12歳で出勤し、ずっと与力を勤めた人である。佐久間長敬氏と共に長寿を保ち、後に旧幕府についての、貴重な資料を残した人である。』 (「史料 4011 町奉行所の最後 南北の町奉行所は、官軍の江戸進駐 …」より)]
「46.八町堀襍記六 安藤菊二(PDFファイル:1595.02 KB)」に佐久間長敬が記述した「安政日記抄」で長敬が年少の頃の年始廻りについて本人の体験を記述されていて、そこに記述されている年始廻りに訪れた、八丁堀の与力及び屋敷内について記述されています。その与力屋敷について「八丁堀細見図」に描かれている与力屋敷(一部転記違いがあるようですが)にほぼ合致します。年始廻りの記述与力名と「八丁堀細見図」を比較してみるのも面白いものです。佐久間長敬の年始廻りは、佐久間家から時計回りと逆方向に回っています。なお、「八丁堀細見図」には年始廻りにある与力東條八太夫が描かれていない。「町鑑与力名簿」には嘉永5年3月30日―安政4年12月28日の北町奉行の筆頭与力として東條八太夫が書かれているが、安政5年10月9日には筆頭与力欄が空欄になり、それ以降文久元年5月26日まで東條八太夫の名が無いので、 「八丁堀細見図」が安政4年12月28日以降の復刻絵図でないかと思います。
また、原善左衛門(原胤昭の二代前)家について下記の通り記述しています。
『三村吉兵得の向え屋敷これは(佐久間家の)庭続きの隣家吟味方原善左衛門也。叔父にて日々出入りしていけるゆえ一家も同じ事なれど、大の茶の湯数寄のことゝて、茶の心得なき奴は行儀が悪いなど、元旦早々お小言頂くも気がきかねば、鳥渡(ちょっと)年賀を申陳べ、家内雑居の座敷に引下る。恰度(ちょうど)「晝飯を持ちいる故手廻をして早く帰れ」と母の伝言ありし所也。此家は親譲りの財産家且は普請も當主の好みにて万事茶人向に出来居り、当時浜町に住居し、千家の宗匠川上宗二指図せし哉(や)に聞けり。この形摸して東條は造りしやうに思はる。畳数も同じ事也。叔父は病身にて、哀れ命長からじと思ひ、普請のみならず道具買入れて、茶道の為に数万の金費せし由聞えしと也。』]
資料リンク
「新作八丁堀ピ組屋敷図 – 国立国会図書館デジタルコレクション」より
「国立国会図書館デジタルコレクション – 八町堀組屋敷図」(コマ番号4/7・絵図左下から2軒目に佐久間家、その上に原家が描かれています。」
「国立国会図書館デジタルコレクション – 八町堀細見繪圖(文久2 [1862])」(絵図四つ切右下・「同町裏茅場町」左方向交差路右下に「佐久間弥太吉」、その下方向に「原定太郎」が描かれています。)
カメラ東方向に与力・佐久間長敬(弥太吉)屋敷があったようです。また、与力・佐久間長敬(弥太吉)屋敷の東隣が原胤昭(定太郎)でした。