マーカーは全国信用組合会館です。
中橋狩野家屋敷跡
[歌川広重の住居の近くに狩野一族の中橋家狩野屋敷がありました。現在のブリジストン美術館南西となりの新八重洲ビルの裏、全国信用組合会館のあたりです。狩野派は室町時代末期の狩野正信に始まり、江戸時代に全国的に繁栄した日本絵画史上最大の画派です。江戸時代始めに鍛冶橋家の狩野探幽が江戸幕府の奥絵師(御用絵師)となると、江戸を中心に活動し、一族の四家が奥絵師を独占しました。また、地方大名の抱絵師も狩野家の派から専任されるなど、最高の流派を誇りました。江戸狩野四家は、鍛冶橋家の狩野探幽、木挽町家の狩野尚信、中橋家の狩野安信、浜町狩野岑信で、そのうち中橋家は江戸狩野家の宗家と認められた家柄でした。 (「中央区のまちづくり:京橋界隈 – 東京中央ネット」より)]
[江戸時代の狩野派は、狩野家の宗家を中心とした血族集団と、全国にいる多数の門人からなる巨大な画家集団であり、ピラミッド型の組織を形成していた。「奥絵師」と呼ばれる、もっとも格式の高い4家を筆頭に、それに次いで格式の高い「表絵師」が約15家あり、その下には公儀や寺社の画事ではなく、一般町人の需要に応える「町狩野」が位置するというように、明確に格付けがされ、その影響力は日本全国に及んでいた。この時代の権力者は封建社会の安定継続を望み、江戸城のような公の場に描かれる絵画は、新奇なものより伝統的な粉本に則って描かれたものが良しとされた。また、大量の障壁画制作をこなすには、弟子一門を率いて集団で制作する必要があり、集団制作を容易にするためにも絵師個人の個性よりも粉本(絵手本)を学習することが重視された。こうした点から、狩野派の絵画は、個性や新味に乏しいものになっていったことは否めない。
奥絵師は旗本と同格で、徳川将軍への「御目見(おめみえ」と帯刀が許されたというから、その格式の高さがうかがえる。奥絵師の4家とは探幽(狩野孝信の長男)の系統の鍛冶橋家、尚信(孝信の次男)の系統の木挽町家(当初は「竹川町家」)、安信(孝信の三男)の系統の中橋家、それに狩野岑信(みねのぶ、1662 – 1708)の系統の浜町家である(岑信は、狩野尚信の長男である狩野常信の次男)。探幽には初め実子がなかったため、刀剣金工家の後藤立乗の息子の洞雲(狩野益信、1625 – 1694)を養子とした。後に探幽が50歳を過ぎて生まれた実子である狩野探信守政(1653 – 1718)が跡を継ぐが、この系統からはその後見るべき画家は出なかった。探幽には多くの弟子がいたが、中では『夕顔棚納涼図』を残した久隅守景(くすみもりかげ、生没年未詳)が著名である。守景は何らかの事情で狩野派を破門になり、後には金沢方面で制作したが、経歴について不明な点が多い。
前述のとおり、狩野家の宗家は、探幽の弟・安信の中橋家が継ぐことになった。安信の子の狩野時信(1642 – 1678)は30代で没し、その子の狩野主信(うじのぶ、1675 – 1724)が家督を継ぐが、この系統からもその後目立った画人は出ていない。都会的な画風で人気を博した英一蝶(はなぶさいっちょう、1652 – 1724)は安信の弟子であった。 (wikipedia・狩野派より)]
資料リンク
「東京都立図書館アーカイブ – 文久再鐫八町堀霊岸島日本橋南之絵図(文久3[1863]再刻)」[絵図絵図四つ切左上・南伝馬町壱丁目下、大鋸町(おがちょう)に狩野永徳、その下に画廣重と記述されています。]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 呉服橋御門外ヨリ鍛冶橋御門外日本橋京橋川筋限八丁堀箱崎霊岸島辺一円絵図」(絵図四つ切右上・中橋廣小路左上の大鋸町に中橋家狩野屋敷と歌川広重住居が隣り合ってありました。)
カメラ南南東方向が全国信用組合会館で、この付近が中橋狩野家屋敷跡です。表は南側になります。