マーカーは与力・同心組屋敷跡の説明板です。
八丁堀
[江戸時代には江戸町奉行所の同心・与力の居住区となっていたため、彼らの自称・俗称(例:「八丁堀」(中村主水等)・「―の旦那」)や彼らを主人公とした時代劇の作品名に用いられる事がある(例:「八丁堀の七人」)。住居表示も同じく八丁堀である。江戸時代、この地に開削された堀の長さが約8町(約873m)あったため「八町堀」と呼ばれ、その堀名に由来して町名がつけられた。後に「町」が略字の「丁」となる。
江戸時代初期には、多くの寺が建立され、寺町となっていた。しかし、1635年、八丁堀にあった多くの寺は、浅草への移転を命じられた。その後、寺のあった場所に、町奉行配下の与力、同心の組屋敷が多く設置されるようになり、彼らは八丁堀の名物となっていった。江戸時代、八丁堀にあった銭湯は非常に混雑することで知られ、混雑を避けて女湯に入る同心達もいた。そのため、八丁堀の銭湯には、女湯にも武士の刀をかけておく刀掛けがあり、「女湯の刀掛」と呼ばれ有名な存在になっていた。 (wikipedia・八丁堀_(東京都中央区)より)]
[江戸初期に埋め立てられた八丁堀の地は、はじめは寺町でした。寛永12年(1635年)に江戸城下の拡張計画が行われ、玉円寺だけを残して多くの寺は郊外に移転し、そこに与力・同心組屋敷の町が成立しました。その範囲は茅場町から八丁堀一帯に集中しています。八丁堀といえば捕物帖で有名な「八丁堀の旦那」と呼ばれた、江戸町奉行配下の与力・同心の町でした。与力は徳川家の直臣で、同心はその配下の侍衆です。着流に羽織姿で懐手(ふところで)、帯に差した十手の朱房もいきな庶民の味方として人々の信頼を得ていました。初期には江戸町奉行板倉勝重の配下として与力10人、同心50人から始まってのち、南北両町奉行が成立すると与力50人、同心280人と増加し、両町奉行所に分かれて勤務していました。与力は知行200石、屋敷は300~500坪、同心は30俵2人扶持(ぶち)で、100坪ほどの屋敷地でした。これらの与力・同心たちが江戸の治安に活躍したのですが、生活費を得るため町民に屋敷地を貸す者も多く、与力で歌人の加藤枝直・加藤千蔭父子や医者で歌人の井上文雄などの文化人や学者を輩出した町としても知られています。平成13年(2001年)3月 中央区教育委員会 (「東京都中央区の歴史 八丁堀」より)]
(玉川上水樋管)
[八丁堀、霊岸島への配水は1661-1680(寛文・延宝)の頃、神田上水からの水掛かりが不十分として玉川上水に水源を変更している。「玉川上水大絵図」で 、八丁堀、霊岸島へ配水する樋筋を上流側にたどると、山下御門横の堀に設置された懸樋と潜樋を連接した部分に達する 。このような奇妙な、仮設的な構造をもつ理由は、堀に排水もしくは濠用水としていた上水を八丁堀、霊岸島へ配水したためと考えられる。そして『上水記』絵図の頃までに、先の仮設的な構造物が廃され八丁堀、霊岸島への樋筋の経路を変更したと思われる。 (「玉川上水の江戸市中における構造 と機能に関する基礎的研究 … – j-stage」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 八町堀組屋敷上水絵図」
資料リンク
「新作八丁堀ピ組屋敷図 – 国立国会図書館デジタルコレクション」
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 築地八町堀日本橋南絵図」
「国立国会図書館デジタルコレクション – 呉服橋御門外ヨリ鍛冶橋御門外日本橋京橋川筋限八丁堀箱崎霊岸島辺一円絵図」
「国立国会図書館デジタルコレクション – 八町堀細見繪圖(文久2 [1862])」
カメラ西方向に八丁堀の与力・同心組屋敷跡の説明板があります。