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加藤枝直(かとう・えなお)・千蔭(ちかげ)父子邸
加藤枝直(又左衛門)
[加藤枝直[かとう えなお、元禄5年12月11日(1693年1月16日) – 天明5年8月10日(1785年9月13日)]は、江戸時代中期の幕臣・歌人。本姓は橘氏。初名は為直、後に枝直と書いて「えだなほ」と訓むが「えなほ」と改め、要南甫とも書く。通称は又左衛門、又兵衛。号は南山・常世庵・芳宜園。加藤千蔭の父。
伊勢国松坂に生まれる。父・尚之は紀伊徳川家に仕える武士だったが讒言のために浪人し春雪と号した。兄が3人いたが枝直一人が残り家を嗣ぐべき身となる。和歌を好んだ父に学問を教えられる。武家奉公を志し、享保3年(1718年)に江戸へ出て江戸幕府に仕え、享保5年(1720年)には大岡忠相配下の町奉行与力となり、翌年には吟味方に昇進、300坪の邸宅に10人の奉公人を抱えられる身分となる。在職中に「公事方御定書」を起草したほか、幕府の文教政策にも関与した。はじめ堂上派の歌学を学んだが、賀茂真淵を知ってから真淵の学問に傾倒し、精神面だけでなく物資の援助も行った。謡曲の趣味があり田安宗武が命じた謡曲本の改訂に携わったこともある。和歌にも堪能であり、小林歌城や清水浜臣に影響を与えた。青木昆陽を上司の大岡忠相に推挙し、「蕃薯考」出版と薩摩芋試作のもとを作った。歌論書に「歌の姿古へ今を論らふ(あげつらふ)詞」、歌集に「東歌」がある。 (wikipedia・加藤枝直より)]
加藤千蔭
[加藤千蔭[かとう ちかげ、享保20年3月9日(1735年4月1日) – 文化5年9月2日(1808年10月21日)]は、江戸時代中期から後期にかけての国学者・歌人・書家。父は加藤枝直。姓を橘氏とすることから、橘千蔭とも称する。通称は又左衛門。字は常世麿。号は芳宜園など。
歌人で江戸町奉行の与力であった父・枝直の後をついで吟味役となったが、寛政の改革にあたり、1788年(天明8年)町奉行与力を辞し、学芸に専念した。若くして諸芸を学んだが、特に国学を賀茂真淵に学び、退隠後、師真淵の業を受け継ぎ、同じく真淵の弟子であった本居宣長の協力を得て『万葉集略解』を著した。和歌については、千蔭の歌風は『古今和歌集』前後の時期の和歌を理想とする高調典雅なもので、村田春海と並び称され、歌道の発展に大きく貢献し、万葉学の重鎮として慕われた。門人に大石千引や清原雄風がいる。また書にも秀で、松花堂昭乗にならい和様書家として一家をなし、仮名書の法帖を数多く出版した。しばしば、江戸琳派の絵師酒井抱一の作品に賛を寄せている。絵は、はじめ建部綾足に漢画を学んだが、その後大和絵風の絵画に転じた。
東京国立博物館には千蔭の木像と、肖像画が残る。上部の自賛から、没する前年の6月に描かれ、長谷川貞忠(詳細不明)と渡辺広輝(阿波藩御用絵師で住吉派の住吉広行の弟子)の作であることがわかる。
千蔭流
和様の書の流派として明治期に人気があった。当時、貴族や上流階級の令嬢たちの和歌の師匠として人気のあった中島歌子が千蔭流の書を嗜んだことから、その門下生の樋口一葉も千蔭流の書を学んだ。 (wikipedia・加藤千蔭より)]
「46.八町堀襍記六 安藤菊二(PDFファイル:1595.02 KB)」に佐久間長敬が記述した「安政日記抄」で長敬が年少の頃の年始廻りについて本人の体験を記述されていて、そこに記述されている年始廻りに訪れた加藤又左衛門について下記の通り記述しています。
『加藤又左衛門、千蔭の倅也。床掛物その外先代の譲りものゝこととて立派也。然し先代とは違いて、よき役は勤められざりし。七十巳上にてこれも中村と同じく倅分家せしゆえ、養子さがしつつあると也。』
資料リンク
[チョウチンカケヨコ丁右上に加藤又左衛門 同橘三郎と記述されています。 (「新作八丁堀ピ組屋敷図 – 国立国会図書館デジタルコレクション」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 八町堀組屋敷図」(コマ番号6/7・九鬼式部小輔の上一画の右上角に加藤又左衛門が描かれています。」
「国立国会図書館デジタルコレクション – 八町堀細見繪圖(文久2 [1862])」(絵図四つ切右上・代官屋敷とテフチンカケヨコ丁(堤燈駆け横町)の間・下側道路に面して「与力 加藤又左衛門 同橋三郎」と描かれています。)
カメラ北北西方向付近に加藤枝直・千蔭父子邸があったようです。