マーカーは千葉定吉道場跡案内板です。
[千葉定吉道場跡
所在地 東京都中央区八重洲二丁目八-八付近
千葉定吉(?~1879)は、北辰一刀流剣術の創始者千葉周作の弟であり、自身も北辰一刀流の使い手と知られています。
千葉周作は、文政五年(1822)に道場を品川町(現在の日本橋室町一丁目のうち)に開き、その後、神田お玉ヶ池(現在の千代田区岩本町付近)に移転をしました。玄武館と名付けられたこの道場は、江戸三大道場の一つに数えられるほどの隆盛を極めました。
定吉は、兄周作の玄武館道場の隆盛に貢献した後、自らもこの地付近に「小千葉道場」などと通称される道場を開きました。
定吉の名前は、嘉永六年(1853)十二月改正の絵図には新材木町(現日本橋堀留町一丁目のうち)に、嘉永七年正月改正の絵図には狩野屋敷と呼ばれていた(幕府奥絵師鍛冶橋狩野家の屋敷に由来)この地域に確認するとができます。
嘉永六年、剣術修行のために江戸へ出てきた土佐藩士坂本龍馬(1835~1867)は、定吉の門に入ったとされています。この時定吉は、鳥取藩池田家に仕官していたため、龍馬は定吉の息子千葉重太郎のもとで修業に励んだとも考えられています。また、安政三年(1856)に江戸へ再出府した際にも、定吉の道場で剣術修行を行い、安政五年正月には定吉から「北辰一刀流 長刀兵法」の目録を伝授されました。
平成二十二年三月 中央区教育委員会]
「東京都立図書館アーカイブ – 日本橋南京橋八丁堀霊岸島辺絵図(嘉永7[1854])」(絵図右上・鍛冶橋御門左下にカノヲシンミチその上下に狩野屋敷が描かれ、上の左端に千葉定吉と記述されています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 呉服橋御門外ヨリ鍛冶橋御門外日本橋京橋川筋限八丁堀箱崎霊岸島辺一円絵図」[絵図四つ切右上・比丘尼橋と中ノ橋の間下方向に狩野屋敷が描かれ、間の道に天保三(1832)年新道出来と記述され、上の狩野屋敷左端に千葉定吉道場があったようです。]
カメラ南方向植え込みに千葉定吉道場跡案内板があります。
千葉定吉道場跡案内板(Google Map 画像)