マーカーは京橋2丁目・明治屋前です。
南伝馬町
[大伝馬町・小伝馬町・南伝馬町のいわゆる三伝馬町は、江戸の4「町」の筆頭 - つまり江戸の多くの町を代表する町として尊重されました。この三伝馬町は徳川家康が江戸に来るまでは、日比谷入江 – ほぼ現在の皇居外苑の場所の、皇居側の海岸にあった千代田・宝田・祝田の三つの村の後身です、この三つの村が日本橋や京橋に移されたのは、村の場所が江戸城の拡張で場内に取り込まれたためでした。三つの村は日本橋地区と京橋地区に移されて、はじめは徳川家の、慶長8年(1603)の江戸幕府成立以後は幕府の伝馬役を負担する町としての役割を与えられました。三伝馬町が江戸の町の代表として扱われた理由は、幕府が「江戸先住民」の存在を尊重すると同時に、伝馬役という陸上輸送手段の運営をまかしたことにあったといえます。
江戸の大祭、天下祭りと呼ばれた日枝山王と神田明神の祭礼行列の先頭には、必ず大伝馬町(小伝馬町含む)と南伝馬町の二台の山車が引かれました。山王祭の時には山王の神領である日本橋の一部と京橋と、神社の地元の麹町の町が参加し、明神の祭りには神田と日本橋の一部の町が参加しました。このように都心の町々は一年おきに、それぞれの神社の神領の範囲ごとに天下祭りをしたのですが、大伝馬町と南伝馬町は結局は毎年、天下祭りの先頭に立ち、その上に、今は全く忘れられてしまいましたが、毎年六月には神田明神の地主神である三天王祭=祇園会が行われました。大伝馬町(小伝馬町を含む)が五~八日、南伝馬町が七~十四日、小伝馬町に代る小船町の祭が十~十三日にそれぞれ盛大に行われました。この当時の表現での三つの祇園会、別称三天王祭りの有様は、『東都歳事記』や『江戸名所図会』などでは、天下祭り以上の賑わいだったことが、それぞれの挿絵や文章でわかります。 (「中央区立京橋図書館 – 郷土室だより – 中央区の”みち”(その3)」より)]
[南伝馬町天王祭
6月7日は神田社地(神田明神境内)の天王一の宮の祭がある。南伝馬町2丁目の御旅所(おたびしょ)へ神幸(神体がお出掛けになること)があり、14日に帰輿(きよ、かついで帰ること)する。行列飾りなどは大伝馬町と同じだが、ただし四神(しじん、青龍・朱雀・白虎・玄武)の鉾は宮元の町内へ置いて行列に加えない。当祭礼で驚くのは鞘町の巨大な唐人幟と、往来の道幅いっぱいに掛ける大行燈である。また、中通りの北南と東西の横町の四辻へ四方行燈を掛ける。この行燈は四方へ画を描いた燈籠で、画はいずれも武者の図で浮世絵の達者の筆になる。江戸において類のない作り物といえる。 (「江戸年中行事&風俗」より)]
「東京都立図書館アーカイブ – 文久再鐫八町堀霊岸島日本橋南之絵図(文久3[1863]再刻)」(絵図中央右方向に山王御旅所が描かれています。)(絵図上中央左方向・中橋広小路町左、京橋まで南伝馬町壹丁目、二丁目、三丁目が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 呉服橋御門外ヨリ鍛冶橋御門外日本橋京橋川筋限八丁堀箱崎霊岸島辺一円絵図」(絵図右・日本橋通り上、中橋広小路から京橋までが南伝馬町です。)
「東京市拾五区区分全図 第三 京橋区全図 – 特別区協議会」
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「南伝馬町祇園会御旅所・解説文は左ページ中程」(2-17)
南伝馬町祇園会御旅所(拡大図)
[一・二丁目の十字路には神田明神の祇園会御旅所があり、毎年6月7~14日の牛頭天王祭には参詣者で賑わった。現在の中央通り 京橋一・二丁目の交差点にあたる。 (「【京橋①012】南伝馬町 – 江戸町巡り」より)]
絵本江戸土産 – 南伝馬町 天王祭(拡大図)
絵本江戸土産 – 南伝馬町 天王祭其二(拡大図)
カメラ位置は京橋2丁目・明治屋前です。
カメラ位置は神田明神境内で、カメラ西北西方向が「一の宮」江戸神社です。(明治時代に入り「一の宮」は須賀神社と改称されたが、明治十八年(1885)に「持ち」が南伝馬町より神田青物市場に変わったのを期に名称も「江戸神社」となり神田市場の絢爛豪華な天王祭も市場内に止まらず、東京中の市民を驚かせたという。現在その祭礼は神田祭と同日に行われ昭和三三年・鹿野喜平作の市場の大神輿が神田祭の主役の様に扱われているが、本来その神輿は天王祭「一の宮」江戸神社の本社神輿なのである。 「神田神社と神田祭【大好き神田】」より)