同心・今泉覚左衛門屋敷跡

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同心・今泉覚左衛門屋敷跡

今泉雄作(いまいずみゆうさく)
[ 1850-1931 明治大正時代の美術史家。
嘉永(かえい)3年6月19日生まれ。明治10年パリに留学,ギメ東洋美術館で東洋美術を研究。帰国後,岡倉天心らと東京美術学校(現東京芸術大学)の創立にくわわる。のち京都市立美術工芸学校長,帝室博物館美術部長,大倉集古館長などを歴任。昭和6年1月28日死去。82歳。江戸出身。名は彰。字(あざな)は有常。号は文峰,也軒,常真居士など。著作に「君台観左右帳記考証」など。  (「kotobank – 今泉雄作」より)]

[八丁堀の同心の家筋から出て、後に学者と鑑識家として知られ、帝室博物館美術部長などを歴任し、大正五年に大倉集古館長となった今泉也軒翁は、この地の出世頭と称してもよいであろう。
 也軒翁のことは、原胤昭翁が『江戸文化』第五巻第二号に「今泉先生の生い立ち」という題で追悼談を書いておられる。
『(前略)今泉君はわたしとは竹馬の友。わたしの生まれたのは江戸八丁堀の萱場町、今の市電停留所の辺りだ。萱場町の四ッ角、東角の邸であった。ここに萱場町とは書いたが、わたし共の住んでいた地域は武家地で町地でないから、本当は町名が無かったのだ。明治になってから萱場町と称号し、今泉君の住居辺りは北島町と。
 (君の家は)わたしの実家、佐久間の邸から南へ向って、地蔵橋の方へ少しばかり往った西側であった。君の住居の直ぐ向ふが幽霊横町で、その先がドブ湯の横町、同側の南横町が、ちゃぅちん駆(ママ)け横町で、君のうしろが歌人加藤枝直、千蔭先生などの住居であった。
    中略
 ご尊父は同心の中に重要視された深慮篤学の人で、わたしどもも深く尊敬させられた老輩であった。町方組内の与力と同心の間柄、応答の懸隔は甚だ距離の遠いものであった。与力は同心を眼下に見下げ、之を呼ぶにも苗字を呼捨にした。尚与力の家族も同じように、平素の交際にも苗字を呼捨てにしたものだが、父兄の訓導もあったろうか、今泉氏に対してのみは、今泉のおぢさんと呼ばされた。
 覚左衛門氏は、わたしの実父佐久間健三郎や、実兄佐久間長敬が、枢要の公務を執るに当っては、同班の役向き在った故に、朝夕の出入頻繁なものがあった。故にわたしも御尊父には寧ろ雄作先生よりも、より厚き親しみを受けました。』  (「郷土室だより(八丁堀襍記)-アーカイブス中央区立図書館 – 50.八町堀襍記一〇 安藤菊二(PDFファイル:1579.23 KB)」より)]

八丁堀の七不思議「ドブ湯」と幽霊横町
[八丁堀の七不思議について、元八丁堀与力佐久間長敬は書いているが、その第三「ドブ湯」について下記のように記述しています。
『「ドブ湯」これは前述(「女湯に刀掛がある。」)せし風呂屋也。元は足のみを洗ふためなりしを、ドンブリ入るといへる語約まりてドブと云し也』
大四「鬼の住居に幽霊が出る」については、
『「鬼の住居に幽霊が出る」これは前出せし幽霊横町のこと也。鬼とは与力同心をいう也。』
また、前出せし幽霊横町について下記のように記述しています。
『名の如く両側は与力屋敷の高い板塀、てうど誹向きの闇い新道にて、夜な夜なしらしらと、しらけたる首どもがとび出し、通行人の袖ひきとめしなど、怪談もありし也』と書いている。  (「郷土室だより(八丁堀襍記)-アーカイブス中央区立図書館 – 43.八町堀襍記三 安藤菊二(PDFファイル:1069 KB)」より)] 

資料リンク

新作八丁堀ピ組屋敷図 – 国立国会図書館デジタルコレクション」より

国立国会図書館デジタルコレクション – 八町堀細見繪圖(文久2 [1862])」(絵図中央右・シンポコウジ(神呆小路)とテフチンカケヨコ丁(堤燈駆け横丁)の間の下に「今泉覺左衛門」が描かれています。)

カメラ西北西方向付近に同心・今泉覚左衛門屋敷があったようです。

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