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同心・浅井竹蔵屋敷跡
[樋口一葉の父・則義は慶応3年(1867)に同心・浅井竹蔵から同心株を譲り受けた。浅井は与力・仁杉支配の平同心だった。同年10月には大政奉還が布告された。現在地は特定できないが、中央区日本橋茅場町2-5あたりか。 (「八丁堀周辺 歴史案内〈茅場町・兜町〉 – nifty」より)]
仁杉八右衛門幸昌と樋口則義(樋口一葉の父)との関わり
[仁杉八右衛門幸昌は慶応3年(1867)には五番組の支配与力に昇進していることが、当時、平同心浅井竹蔵から同心株を買って幕臣になった樋口一葉の父・樋口則義の記録でわかる。樋口為之助が浅井竹蔵の同心職務、俸給、屋敷を引き継ぐことに関して奉行所からの通達に五番組支配与力 仁杉八右衛門の名が見える。
樋口一葉の父母(樋口則義・たき)はともに甲斐国山梨郡の生まれ、結婚を許されなかったため、駆落ちして江戸に出て来た。江戸では則義の父八左衛門の友人で蕃書調所 勤番筆頭だった真下専之丞の世話になり、ここで使い走りの職を得た。その後、苦節10年、慶応3年(1867)に南町奉行所の平同心・浅井竹蔵から同心株を買取り、30俵2人扶持の同心となった。則義は大変几帳面な性格だったようで、故郷から江戸に向かう行程を記録した太吉日記をはじめ、各種の願書や届出書、契約書の写などを丹念に記録にとどめている。契約書を見ると同心株の譲渡代金は100両で、内50両を前払いし、全て譲渡手続きが終わったら残金を払う事、もし譲渡不調に終わったら50両を払い戻す事、家督相続が終ったら(浅井から樋口に)に改姓すること、菩提寺(浅草正安寺)の供養をする事、(浅井の)母親の面倒を見る事などの細かい取り決めが並んでいる。また、上の写真(※リンク先をご覧ください)は上記の契約で為之輔(則義)が浅井竹蔵の職務、家督を譲り受けた届出を受けて、同7月に奉行所から出した通達書である。
『支配与力 江
五番組 仁杉八右衛門支配 平同心 浅井 竹蔵
撤兵
西村熊次郎厄介弟 樋口為之輔
右竹蔵儀、病気に付、願の通御暇申し渡し候、同人跡へ為之輔御抱入申し渡し、
竹蔵取米三拾俵弐人扶持・町屋敷共下され候間、其段申さるべく候
卯七月』
浅井竹蔵が属していたのは5番組で、この支配与力は仁杉八右衛門だったため、樋口則義も5番組所属となり八右衛門の支配下に入った。
則義が江戸に出て10年で100両という大金をどう都合したのか。また慶応3年といえば明治維新の前年であり、幕府崩壊はもう誰の目にも明らかになっていた頃であるのに、100両もの大金を払って同心株を買って帳尻が合ったのか興味深い。米の値段にもよるが、100両といえば同心の年収の20倍以上である。浅井竹蔵は病気のために同心株を売った模様であるが、翌年には奉行所は廃止となっているので、結果的には「高く売り抜いた」といえるのではないか。 (「3代八右衛門幸昌」より)]
[樋口一葉の父親の則義は甲斐国山梨郡中萩原村(現:甲州市塩山)の百姓であったが、祖父は俳諧などの文芸や経書に親しんでいたようで、則義も農業より学問を好み、さらに多喜との結婚を許されなかったため駆け落ち同然に江戸に出たという。則義は蕃書調所の小使いから1867年(慶応3年)には同心株を買い、運良く幕府直参となり、明治維新後には下級役人として士族の身分を得て東京府庁に勤めたが、1876年(明治9年)に免職。1877年(明治10)には警視庁の雇となり、1880年(明治13)には,勤めのかたわら闇金融,土地家屋の売買に力をいれた。職権などで入手した情報などをもとに,不動産の売買・斡旋などを副業に生計を立てていた。1889年(明治22年)、則義は荷車請負業組合設立の事業に失敗し、同年7月に死去。 (wikipedia・樋口一葉より)]
[同心は三十俵二人扶持を定額とし、子弟にして仮抱人は二十俵二人扶持なり。受領地は、与力三百坪、同心百坪にして、同心分は町屋敷なれば、市人に貸与することも得るものなり。 (「郷土室だより(八丁堀襍記)-アーカイブス中央区立図書館 – 42.八町堀襍記二 安藤菊二(PDFファイル:1587KB)」より)]
資料リンク
「新作八丁堀ピ組屋敷図 – 国立国会図書館デジタルコレクション」より
「国立国会図書館デジタルコレクション – 八町堀細見繪圖(文久2 [1862])」(絵図中央右方向・テフチンカケヨコ丁(堤燈駆け横町)とシンポコウジ(神保小路)の間中程に「浅井竹蔵」が描かれています。)
カメラ位置付近に同心・浅井竹蔵屋敷があったようです。