同心・間米藤十郎家屋敷跡

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同心・間米藤十郎家屋敷跡
[同心・間米藤十郎は丸橋忠弥召し捕りの際の功によって玄関を許されたことから、諸説八丁堀の七不思議に「血染めの玄関」とある。子孫の間米長十郎氏は昭和戦前まで居住していた、という。(昭和50年、八丁堀三丁目西町会誌から)。
文久2年(1862)の「尾張屋版八丁堀細見絵図」には「大通り」と「玉子屋新道」に挟まれた岡崎町に「間米弥右衛門」の名が載っている。現在地は特定できないが、中央区八丁堀3-14あたり。
◆中央区発行『中央区区内散歩』第2集、平成4年(1992)2月刊には次のように記されている。
丸橋忠弥の捕り物に関係があるようです。それこそ大事件、与力同心が張り切って捕り物に向かいます。間米藤十郎は同心の一人。間米は捕り物に大変な働きをし、かなりの手傷を負ったといいます。町奉行がわざわざ彼を見舞い、「何か望むものはないか、できれば叶えてやるぞ」といったとき、実際は与力になりたかったのですが、そうも言えず、「玄関を構えたい」というと、許可になったのです。本当は与力だけが玄関を構えることができるのですが、彼はついに与力にはなれず、玄関を構えることは恥ずかしいので、そっと裏に玄関を構えた、というので、土地の人々が笑い話にしたといわれています。あくまでも俗説です。  (「八丁堀周辺 歴史案内〈八丁堀その2〉 – nifty」より)]

[享保年間(1716~1736)からの古い通りが今も残っている。玉子屋新道、屋根屋(*家根屋の表記もある)新道、上大通りがそれだ。大通りは現在の八丁堀2丁目西と3丁目西町会の間の通り、屋根屋横町は3丁目17番と16番の間の通り、玉子屋新道は3丁目15番と16番の間の通りをいう。古老の言に、13番の角に大きな玉子屋があったとか。  (「わが町八丁堀 八丁堀三丁目西町会誌 – nifty」より)]

[私道に相当する新道(しんみち・じんみち)が多くあった。裏道などの比較的狭い通りで、多くの商人が店が並べた。幕末期の八町堀細見絵図に両新道が記載されている。当時の大通りと玉子屋新道に挟まれた地に玉円寺があった。玉子屋新道は、その名の通り大きな玉子屋があり、屋根屋新道(家根屋新道とも)は屋根を葺く職人たちが集まっていたという。幕府から公認された道は「横町」といった。現在地は中央区八丁堀3-15、16付近。  (「八丁堀周辺 歴史案内〈八丁堀その1〉 – nifty」より)]

[同心は三十俵二人扶持を定額とし、子弟にして仮抱人は二十俵二人扶持なり。受領地は、与力三百坪、同心百坪にして、同心分は町屋敷なれば、市人に貸与することも得るものなり。  (「郷土室だより(八丁堀襍記)-アーカイブス中央区立図書館 – 42.八町堀襍記二 安藤菊二(PDFファイル:1587KB)」より)]

資料リンク

上大通りと玉子屋新道の間左から3軒目に間米弥右エ門と記述されています。  「新作八丁堀ピ組屋敷図 – 国立国会図書館デジタルコレクション」より

国立国会図書館デジタルコレクション – 八町堀細見繪圖(文久2 [1862])」(絵図四つ切左上・「大通りと云う」と「玉子ヤシンミチ」の間上から三番目に間米弥右エ門と記述されています。)

カメラ南南東方向の一画に同心・間米藤十郎家屋敷があったようです。

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