マーカーは徳船稲荷神社です。
徳船稲荷神社
[徳船稲荷神社縁起
徳川期この地新川は、越前松平家の下屋敷が三方堀割に囲われ、広大に構えていた(旧町名越前堀はこれに由来する)。その中に小さな稲荷が祀られていたと言う。御神体は徳川家の遊船と舳を切って彫られたものと伝えられる。明暦3年、世に云う振袖火事はこの地にも及んだが御神体はあわや類焼の寸前難を免れ、大正11年に至るまで土地の恵比須稲荷が安置された。関東大震災では再度救出され、昭和6年隅田川畔(現中央大橋北詰辺り)に社を復活し町の守護神として鎮座したが、戦災で全焼。昭和29年中央大橋架橋工事のため、この地に遷座となる。例祭は11月15日である。 新川2丁目越一町会崇敬会
恵比寿前稲荷祠、同所東湊町の南、高橋の北詰、人家の間にあり(別当は天台宗にして普門院号す)。昔は、向井(将監)侯のやしきにありしが、海賊橋より引き移られし頃、宮居を構の外に出だされしとぞ。このところをゑびすの宮前、または、蛭子前と唱へはべり。古老云く、昔、この地より銕炮洲・築地へかけて、一円の海なりし頃は、ここかしこに出洲のみあり。このあたりの洲に芝海老といえるもの多く集まる。ゆゑに、漁人字にえびの洲と唱へ、その洲崎にありし稲荷の宮なるをもて、海老洲の宮とのみ、よびならはせしが、後世誤りて、蛭子神に混じ、また、夷子に転じ、いよいよ附会せしなりとぞ。この説、さもありなんかし。『江戸名所図会』より。
(「八丁堀周辺 歴史案内〈新川〉 – nifty」より)]
資料リンク
「東京都立図書館アーカイブ – 文久再鐫八町堀霊岸島日本橋南之絵図(文久3[1863]再刻)」(絵図下中央、松平越前守中屋敷地に祀られていた徳船稲荷神社が、昭和29年に御船手向井将監左の高橋の東詰めに遷座することになります。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 呉服橋御門外ヨリ鍛冶橋御門外日本橋京橋川筋限八丁堀箱崎霊岸島辺一円絵図」
「国立国会図書館デジタルコレクション – [慶応改正御江戸大絵図](慶応3 [1867])」(コマ番号5/5・絵図右端中央・松平越前中屋敷左海上に湊ハン祠と記述されています。ハンとは福井藩のことを指すのだろうか?)
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「佃島其二湊稲荷神社」(2-36)、「恵比須前稲荷祠解説・右ページ2行目から」(2-33)
佃島其二湊稲荷神社(拡大図
[図会中央下に湊稲荷神社、富士塚が、神社左に稲荷橋が、その左に高橋が描かれている。また、湊稲荷神社の亀島川左岸・高橋の右に描かれているのは御船手向井将監の屋敷と思われる。]
カメラ位置は南高橋東詰で、カメラ北西方向に徳船稲荷神社があります。江戸時代には一橋上流の高橋の北詰にあった。