新場、新場橋

マーカーは江戸期の新場橋です。

新場橋関連リンク – 「楓川、越中橋(現久安橋)

新場、新場橋
[新場は、新肴場の意。本材木町二・三丁目に開かれた魚市場で、延宝2年(1674年)に、日本橋市場と別個に設立され、同市場と交替で、江戸幕府への納魚の事を請負い、月の上旬の納魚を分担した。
新場には、「新場の附浦」といって、武州本牧相州三浦郡八カ村など三十一漁村が付属し、魚荷押はすべて、ここに送ってきた。伊豆沖で捕れる魚は送り舟で力漕してきても、ここに到着する頃には日も隠れて、生きのいい鰹は、勢い夜市で売ることになったのであろう。「新場の夜鰹」といって名高かった。  (「中央区立図書館 – 13.中央区名所名物句集五了 安藤菊二輯(PDFファイル:907.84 KB)」より)]

[新場とは、「新肴場(しんさかなば)」を縮めて、単に「新場」と称していた。江戸の魚市場は日本橋だけでない、ここ新肴場、四日市、芝雑魚場(しばざこば)の4ヵ所があった。四日市は、今の日本橋江戸橋間の南側辺りで江戸橋広小路と呼ばれた一帯。芝雑魚場とは、現在のJR田町駅東北側付近で、港区の史跡説明板が設置されている。
日本橋魚市場の発展を受け、本材木町二丁目・三丁目に新しく魚市場を開設したのが「新肴場」(以下、新場)である。両者の役割は、月の上旬は新場が、中・下旬は日本橋が交替で江戸幕府への納魚を担当した。成立の契機は、延宝2年(1674)に日本橋魚河岸を相手に訴訟を起こした相州三浦郡〔現三浦市〕と武州久良岐郡〔現横浜市磯子区辺〕の漁村13カ村が、日本橋より2割安の値段で売買することを許されたことによる。
江戸期、新場があった楓川江戸湊から八丁堀(桜川)や京橋川とつながり、海運橋(将監橋、海賊橋とも)先で日本橋川に接していた。ここに架かる新場橋は中の橋、楓橋の別称もあり、享和年中(1801-04)の創架のようだが不詳。古い新場橋は現橋より北側(新場橋区民館辺り)にあったが、震災後架け替えで現在地となった。  (「<11>~「新場」って何のこと? – 中央区観光協会 」より)]

[新場橋 – 江戸時代は中之橋とも呼ばれている。延宝2年(1674年)西詰に日本橋魚河岸に続く第二の魚河岸として新肴場(新肴場河岸)が設置され、新場と略された。  (wikipedia-楓川より)]

資料リンク
東京都立図書館アーカイブ – 文久再鐫八町堀霊岸島日本橋南之絵図(文久3[1863]再刻)」(絵図四つ切右上・楓川に新場橋が描かれ、その右上左内町下に魚店ノ所 新場ト云と記述されています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 呉服橋御門外ヨリ鍛冶橋御門外日本橋京橋川筋限八丁堀箱崎霊岸島辺一円絵図」(絵図中央の楓川の下から2番目に新場橋が描かれています。)

カメラ東南東方向に江戸期の新場橋が架設していたようです。また、カメラ北北東方向に新場があったようです。

カメラ東南東方向が現在の新場橋です。

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