日本橋通一丁目(白木屋跡、木原店跡)

マーカーはコレド日本橋です。

地割役(木原店)
[地割役(じわりやく)は、江戸の町の地割を担当する役人で、町地の受渡しに町奉行所の役人や町年寄とともに立合った。町方を支配する町奉行の下に町年寄三家があり、地割役はその下に付随した。当初、町方の地割・地渡しにともなう土地の測量業務は、町奉行の依頼によって、大工頭の木原内匠という者が担当していた。木原は検地道具と役人を出張させて業務にあたったが、依頼件数が増加したため、これらの役人たちを町方で引きうけることにした。木原内匠の親類であった木原勘右衛門が、以後町方地割常役人として勤めることになり、日本橋南通一丁目と本石町三丁目の会所地に拝領屋敷が与えられた。しかし、三代目与右衛門が不行跡により宝永7年(1710年)2月に解任される。そのため、同年に日本橋の名主であった樽屋三右衛門(たるや さんえもん)が木原氏に代わって地割役を勤めることになる。三右衛門の先祖は、町年寄樽屋の先祖であった樽三四郎の次男・惣兵衛である。三右衛門は通一丁目新道にあった木原の居宅(480坪)を拝領し、勘右衛門の時代から仕えていた手代たちを召抱えて業務にあたった。この地割役は樽屋の分家として当主は代々三右衛門を名乗り、名主役の樽屋と分離している。  (wikipedia-地割役より)]

白木屋
[日本橋通り一丁目とは、日本橋から始まる東海道の最初の一区画で、江戸の中心地。今はここに COREDO(コレド)という商業施設がある。COREDOは、かつて五島慶太が、老舗のデパート「白木屋」を乗っ取ってた東急百貨店日本橋店跡です。 その老舗こそ、この絵の背景に描かれた “釜印” の白木屋呉服店です。白木屋は、近江国長浜の材木商大村彦太郎が、寛文2年8月(1662)に江戸に進出。もともとは小間物屋(雑貨屋)であったが、後に京の呉服を扱うようになり、江戸経済の成長もあいまって、駿河町の越後屋、旅籠通町の大丸屋と並ぶ、江戸三大呉服店のひとつに成長した。 白木屋は、もちろん呉服店としてよく知られていたが、その敷地内にあった「白木観音・白木名水」がも有名であった。「白木観音・白木名水」とは、ここにあった湧き水とそれを引き立てるための、観音像のことである。いい伝えによると、2代目大村安全が、敷地内に井戸を掘ったところ、一体の観音像が発掘されて、さらに水が滾々(こんこん)と湧き出すようになった。そこで、店内に祠を建てて観音像を祭り、さらにその名水を庶民に配ったところ、その水を飲んで万病が癒えた人が現れた。そして、この「白木観音・白木名水」は名所となり、多くの人が白木観音詣をするようになったというのだが、店の宣伝としては良くできた逸話である。  (参考「広重 Hiroshige 「名所江戸百景」 時空map」)]

[日本橋の南に位置し、東海道に沿って両側に広がる町。表通り(現在の中央通り)には白木屋、近江屋、江戸最大の書物問屋の須原屋など有名大店が集中し、江戸のメインストリートとして繁盛した。
江戸名所図会を読む:
    通町(本文)  (「歌川 広重 初代 | 錦絵でたのしむ江戸の名所 – 国立国会図書館」-「通一丁目」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 築地八町堀日本橋南絵図」(絵図四つ切り右上・日本橋の左に通一丁目と描かれています。)

東都歳事記. 巻之1-4,附録 / 斎藤月岑 編纂 ; 長谷川雪旦 図画 ; 松斎雪堤 補画」・「歳暮交加図」(5-25)
歳暮交加図(拡大図)

[絵の場所はわかりませんが、絵左上に書肆[しょし]・江戸名所図会(版元が日本橋 須原屋茂兵衛と浅草 須原屋伊八)と見え、須原屋茂兵衛は白木屋の向かいなので、このページにも貼り付けました。]

狂歌江都名所図会 – 本町一、二、三丁目(拡大図)

狂歌東都花日千兩 – 通一丁目東側(拡大図)

[図会右ページの屋号紋は白木屋になります。]

名所江戸百景[歌川(安藤)広重](日本橋通一丁目略圖 (右に描かれているのは白木屋。現在この地にはコレド日本橋がある)・wikipedia-photo)

名所江戸百景[歌川(安藤)広重](日本橋雪晴・wikipedia-photo)

『江戸買物独案内』画像データベース(早稲田大学)の江戸買物獨案内 上・下巻・飲食之部(下巻 / 内容画像124・下画左ページ右)に白木屋が掲載されている。

名水白木屋の井戸 – Google Map 画像リンク

カメラ東方向が白木屋(現在はコレド日本橋)です。

カメラ北方向に名水白木屋の井戸跡の碑があります。

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