マーカーは日枝山王旅所(日本橋日枝神社)です。
日枝山王旅所(日本橋日枝神社)
[山王さん、御旅所、摂末社と親しまれ、天正18年(1590)徳川家康が江戸入城し、日枝大神を崇敬されて以来、御旅所の存する「八丁堀」北島(鎧島)祓い所まで神輿が船で神幸されることに始まる。寛永年間(1624-1643)この地を山王の御旅所に定め、江戸三大祭りの山王祭(神幸祭)に際しては、御本社(山王日吉大権現=日枝神社)から3基の神輿が出て、半蔵門から江戸城内に入り、将軍は吹上で親拝、奉幣する。氏子の各町を巡行して、茅場町御旅所に着き、神事を営んで帰輿する。当時は1300坪余の境内地があったとされ、山王宮、山王権現と天満宮があり、薬師堂もあった。明治6年神仏分離令で薬師堂は敷地外へ分離された。明治4年無格社日枝神社と改称。大正4年摂社日枝神社となった。現在の社殿は、大正12年の関東大震災の後、昭和3年に造営され、境内の末社(北野神社・稲荷神社・浅間神社)を合祀。昭和20年3月東京大空襲で罹災、昭和41年11月屋根葺き替え、大修理をする。 (「中央区郷土史同好会」より)]
日枝山王旅所資料リンク
「東京都立図書館アーカイブ – 文久再鐫八町堀霊岸島日本橋南之絵図(文久3[1863]再刻)」(絵図中央右方向に山王御旅所が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 呉服橋御門外ヨリ鍛冶橋御門外日本橋京橋川筋限八丁堀箱崎霊岸島辺一円絵図」(絵図中央下・鎧の渡し上方向に山王旅所が描かれています。)
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「山王御旅所薬師堂」(2-23)、「山王祭」(2-20)、「山王祭・其二」(2-21)、「山王祭・其三」(2-22)、「薬師堂縁日」(2-24)、「永田馬場山王御旅所、薬師堂解説-1・永田馬場山王御旅所解説右ページ左から3行めから、薬師堂解説-1左ページ左から3行目より」(2-19)、「薬師堂解説-2・左ページ左から6行目まで」(2-25)
山王御旅所薬師堂(拡大図)
山王祭(拡大図)
[絵の出し物の下に「麹町 壱丁目」と描かれ、絵左の天水桶に描かれる屋号が岩に見えるので、岩城枡屋前とおもわれます。]
山王祭・其二(拡大図)
[図会は山王祭の神輿渡御図で、行徳河岸の箱崎川に架かる崩橋(箱崎橋)から南茅場町方向を描いたものです。左ページ下に崩橋(箱崎橋)、その上に日本橋川、左ページ左上に日枝山王旅所(日本橋日枝神社)、智泉院(茅場町薬師)が描かれています。]
山王祭・其三(拡大図)
[図会は山王祭の神輿渡御図で、絵図左ページ下に日本橋川に架かる湊橋、右ページに越前堀(亀島川)に架かる霊岸橋が描かれている。]
「東都歳事記. 巻之1-4,附録 / 斎藤月岑 編纂 ; 長谷川雪旦 図画 ; 松斎雪堤 補画」・「山王御祭礼其二」(3-27)
山王御祭礼其二(拡大図)
[「江戸時代の山王祭の山車行列」のほかに付祭(つけまつり)と称するものが出た。各町が出す山車は「江戸時代の山王祭の山車行列」で見られるように、ある程度内容が決まっていたが、付祭はそれ以外の出し物のことを言い、踊り屋台という長唄や常磐津節などの音曲を伴った移動式舞台ともいえるものや、趣向を凝らした曳き物(人の手でひく車が付いた大きな飾り物)、また仮装行列のようなものもあり、中でも麹町他からの唐人衣裳の行列を伴った白い象の作り物は度々出され、評判を取ったという。 (wikipedia・山王祭_(千代田区)より)
「白い象の作り物」の前を進む出し物は「麹町 壱丁目」の出し物であることは、江戸名所図会の山王祭の出し物の下に「麹町 壱丁目」と描かれていることから分かる。]
「日本橋日枝神社(山王御旅所) – Google Map 画像リンク」
カメラ南東方向が日本橋日枝神社参道です。
日本橋日枝神社参道鳥居のカメラです。
日本橋日枝神社拝殿前のカメラです。