歌川(安藤)広重住居跡

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歌川広重住居跡
[広重は、江戸の下級武士・八代洲河岸、定火消屋敷(八代洲河岸定火消屋敷)の同心、安藤源右衛門の子として誕生、幼名徳太郎、のち鉄蔵、重右衛門また徳兵衛とも称す。文化6年(1809年)数え13歳の時、2月に母を亡くし、同月父が隠居、広重が同心職を継ぐ。同年12月には父も死去。幼い頃から絵心が勝り、文化8年(1811年)(15歳)頃、はじめ初代歌川豊国の門に入ろうとしたが、門生満員でことわられ、歌川豊廣(1776年-1828年)に入門、翌文化9年(1812年)に師と自分から一文字づつとって歌川廣重の名を与えられた。11年後の文政6年(1823年)には、祖父方の嫡子仲次郎に家督を譲って、鉄蔵と改名、後見となった。家業の火消同心を辞め、絵師を専門の職業にした。
天保元年(1830年)一幽斎廣重と改め、花鳥を描いていたが、文政11年(1828年)師の豊廣の死の後は風景画を主に制作した。天保3年 (1832年)、一立齋(いちりゅうさい)と号を改めた。また一遊斎、立斎とも号した。広重は始め役者絵から出発、やがて美人画に手をそめたが、南宋画も学んで、天保3年(1832年)、36東海道五十三次_(浮世絵)」を発表、風景画家としての名声は決定的なものとなった。以降、種々の「東海道」シリーズを発表したが、各種の「江戸名所」シリーズも多く手掛けており、ともに秀作をみた。また、この間、花鳥画においてもすぐれた作品を出し続け、晩年には美人画3枚続も手掛けている。さらに狂歌本の挿絵も多く残している。安政5年没。享年62。死因はコレラだったと伝えられる。墓所は足立区伊興町の東岳寺。法名は顕功院徳翁立斎居士。友人歌川豊国(三代目)の筆になる「死絵」(=追悼ポートレートのようなもの。本項の画像参照)に辞世の歌が遺る。
広重肖像(3代豊国・筆)・ファイル:Portrait_à_la_mémoire_d%27Hiroshige_par_Kunisada.jpg、東海道五十三次之内 日本橋・ファイル:Hiroshige_le_pont_Nihonbashi_à_l%27aube.jpg、京都名所之内 淀川・ファイル:Hiroshige_A_ferry_on_the_river.jpg、東海道五十三次之内 蒲原・ファイル:Hiroshige_nuit_de_neige_à_Kambara.JPG、東海道五十三次之内 庄野・ファイル:Hiroshige,_Landscape_3.jpg、富士三十六景之内 甲斐御坂越・ファイル:Hiroshige_Mt_fuji_4.jpg、「広重・北斎・モネの構図の類似例」・ファイル:Hiroshige_Hokusai_Monet.JPG、広重/ゴッホ・ファイル:Hiroshige_Van_Gogh_1.JPG  (wikipedia・歌川広重より)]

東京都立図書館アーカイブ – 文久再鐫八町堀霊岸島日本橋南之絵図(文久3[1863]再刻)」[絵図絵図四つ切左上・南伝馬町壱丁目下、大鋸町(おがちょう)に狩野永徳、その下に画廣重と記述されています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 呉服橋御門外ヨリ鍛冶橋御門外日本橋京橋川筋限八丁堀箱崎霊岸島辺一円絵図」(絵図四つ切右上・中橋廣小路左上の大鋸町に中橋家狩野屋敷と歌川広重住居が隣り合ってありました。)

2014年4月の画像、カメラ北北西方向に安藤広重住居跡説明板が設置されています。

カメラ東北東方向は改築された全国信用協同組合連合会 本部ビルで、この方向が歌川(安藤)広重住居跡になると思います。

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