マーカーは日本橋郵便局です。
活鯛屋敷
[江戸幕府の御肴市場は日本橋四日市町(活鯛屋敷)にあり、江戸城の御台所賄方から 30俵2人扶持の同心級の役人が出張して城中で消費する魚介類を調達していた。 (「第6章 その後の八右衛門家」より)]
大和屋助五郎の活鯛流通システム
[元和二年(1616年)に本小田原町(現在の本町1丁目と室町1丁目)に住んだ大和屋助五郎は、翌三年より営業を開始し、それから十年以上の歳月をかけて活鯛流通のあたらしいシステムをつくりあげていきます。
助五郎は駿州地方の各浦を回って漁民と契約をし、かれらに仕入金を貸付けた上で、その浦々に活鯛場を設けました。そして旅人(たびにん)と呼ばれる在方問屋に対してもすべてに仕入金を与えて独占的な契約を結びます。それによってそこで捕れる鯛はすべて助五郎に渡ることになるわけで、さらに鯛だけでなく、広くその地方の魚類を引き受けるということをしました。従来の問屋のやり方は、それぞれの旅人との結びつきによって特定の魚を仕入れるというものでしたが、助五郎は産地に資本を投下した上で、そこの魚をそっくり自分のものとする。産地とすれば、何しろすべては仕入金で縛られていますから、助五郎以外の問屋には荷を出すことは出来ません。その浦は助五郎の独占となります。これは相当の資力を必要とする事業であり、漁法、蓄養、運搬とさまざまなノウハウにかかわってくる大がかりなものです。助五郎はパイオニアとして、この難業を貫徹し、独占的な営業を打ち立てることで巨利を得たのです。
大和屋助五郎の功績はまさに魚問屋体制の確立にあります。その大規模な活鯛流通システムは魚河岸のなかでも際立ったもので、むしろアウトサイダー的な位置づけになるのでしょうが、その後の魚問屋は多かれ少なかれの商売の影響を受けたことと思います。各地から集まってきた魚商たちは皆、自分のところに魚を送って来る浦を持っていました。最初に店をひらいた森一族らにしても佃島という自分の浦があり、その後、さら各地に浦を求めていきます。魚問屋が浦を支配していく体制を確立することによって魚河岸は確固たる地位を築いていくのです。森一族は佃島を賜り、幕府への納魚の義務の見返りに江戸湾の漁業権を得て、さらにそれを市中に売ることが許されましたが、だからといって売場の独占まで保証されるものではなかった。助五郎にしても、やはり納魚を名目として、あらたに売場を開くことを許可され、さらに責任ある活鯛供給を任されて、のちには祐太夫という重々しい名前と日本橋の対岸元四日市に「活鯛屋敷」を拝領するに至るのですが、それもまた永代保証ではなく、実績いかんということの結果だったことでしょう。 (「魚河岸野郎 魚河岸四百年 – 大和屋助五郎の活鯛流通システム」より)]
活鯛屋敷資料リンク
「東京都立図書館アーカイブ – 文久再鐫八町堀霊岸島日本橋南之絵図(文久3[1863]再刻)」(絵図四つ切右上・海賊橋右上に活鯛屋シキと記述されています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 呉服橋御門外ヨリ鍛冶橋御門外日本橋京橋川筋限八丁堀箱崎霊岸島辺一円絵図」
カメラ西南西方向が日本橋郵便局で明治初期の四日市町で、この地に江戸幕府魚類御用屋敷があった。カメラ位置が旧江戸橋(現在の江戸橋の100mほど下流)の南詰めになります。(「日本橋郵便局 | 中央区 今昔物語 | 地域密着型新聞らいふ」より)]