マーカーは鍛冶橋狩野家屋敷跡です。
鍛冶橋狩野家
[狩野永徳は父の狩野松栄(直信)に先立って48歳で没した。その後を継いだのは永徳の長男・狩野光信(1565? – 1608)と次男・狩野孝信(1571 – 1618)である。
狩野家の頭領である光信が死去した時、その子の狩野貞信(1597 – 1623)はまだ12歳の若年であったので、光信の弟である孝信が狩野派を率いることとなった。封建制度の下では、光信の長男である貞信の家系が宗家となるはずであったが、貞信が27歳で早世し後継ぎがなかったため、以後、幕末に至る狩野家の正系は孝信の子孫となっている。孝信には守信(探幽、1602 – 1674)、尚信(1607 – 1650)、安信(1613 – 1685)の3人の男子があり、この3人はそれぞれ鍛冶橋狩野家、木挽町(こびきちょう)狩野家、中橋狩野家(宗家)の祖となった。末弟の安信は前述の貞信の養子という扱いで狩野の宗家を継ぐことになったが、絵師として最も名高いのは探幽こと守信である。
守信は、後に出家して探幽斎と称し、画家としては狩野探幽の名で知られる。後に江戸に本拠を移し、江戸幕府の御用絵師として、画壇における狩野派の地位をますます不動のものとした。元和7年(1621年)には江戸鍛冶橋門外に屋敷を得て、以後江戸を拠点に活動し、城郭や大寺院などの障壁画を精力的に制作した。
探幽には初め実子がなかったため、刀剣金工家の後藤立乗の息子の洞雲(狩野益信、1625 – 1694)を養子とした。後に探幽が50歳を過ぎて生まれた実子である狩野探信守政(1653 – 1718)が跡を継ぐが、この系統からはその後見るべき画家は出なかった。探幽には多くの弟子がいたが、中では『夕顔棚納涼図』を残した久隅守景(くすみもりかげ、生没年未詳)が著名である。 (wikipedia・狩野派より)]
「東京都立図書館アーカイブ – 日本橋南京橋八丁堀霊岸島辺絵図(嘉永7[1854])」(絵図右上・鍛冶橋御門左下にカノヲシンミチその上下に狩野屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 呉服橋御門外ヨリ鍛冶橋御門外日本橋京橋川筋限八丁堀箱崎霊岸島辺一円絵図」[絵図四つ切右上・比丘尼橋と中ノ橋の間下方向に狩野屋敷が描かれ、間の道に天保三(1832)年新道出来と記述されています。]
カメラ東南東方向は鍛冶橋通りで、この道を含め両サイドが鍛冶橋狩野家屋敷でした。鍛冶橋通りが新道として登場するのは天保三年以降になります。)