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鎧の渡し
[鎧の渡しは、江戸時代の元禄年間(1688-1704)以来の切絵図や地誌類にも記される日本橋川の渡し場で、明治5年(1872)に鎧橋が掛けられるまで存続した。伝説では、平安の昔、源頼義が奥州平定の途中、ここで暴風逆浪にあい、鎧を海中に投げ入れて竜神に祈りを捧げたところ、無事に渡ることができたので、以来ここを鎧が淵と呼んだといわれている。また、平将門が兜と鎧を納めたところとも伝えられている。「江戸名所図会(鎧の渡し.gif)」や歌川(安藤)広重の「江戸名所百景」には、渡しの図が描かれ、このほか、この渡しを詠んだ俳句や狂歌なども知られている。「縁日に 買うてぞ帰る おもだかも 逆さにうつる 鎧のわたし」(和朝亭国盛)。平成16年3月、中央区教育委員会 (「八丁堀周辺 歴史案内〈茅場町・兜町〉」より]
[◆『江戸名所図会』には次の記載がある。
鎧の渡し(よろいのわたし)――茅場町牧野家の後ろをいふ。このところより小網町(こあみちょう)への舟渡しを、しか唱へたり。往古は大江(たいこう)なりしとなり。俚諺(りげん)にいふ。永承年間[1046-53]源義家(みなもとのよしいえ)朝臣(あそん)[1039-1106]、奥州征伐のとき、このところより下総国に渡らんとす。ときに暴風吹き発(おこ)り、逆浪(げきろう)天を浸(ひた)し、すでにその船覆(くつがえ)らんとす。義家朝臣、鎧一領(いちりょう)をとって海中に投じ、竜神に手向(たむ)けて、風波の難なからしめんことを祈請(きしょう)す。つひに、つつがなく下総国に着岸ありしより、このところを鎧が淵(よろいがふち)と呼べりとなり(元禄開板の『江戸鹿子』[藤田理兵衛、1687]に、「平将門[?-940]このところに兜・鎧を置く。兜は塚に築きて、牧野侯の庭中にあり」と記せり)。 (「八丁堀周辺 歴史案内〈茅場町・兜町〉 – nifty」より)]
「東京都立図書館アーカイブ – 文久再鐫八町堀霊岸島日本橋南之絵図(文久3[1863]再刻)」(絵図右端中央に鎧の渡しが描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 日本橋北神田浜町絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図下・茅場町の上に鎧ノ渡しと描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 呉服橋御門外ヨリ鍛冶橋御門外日本橋京橋川筋限八丁堀箱崎霊岸島辺一円絵図」(絵図中央下に鎧ノ渡と描かれています。)
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「鎧之渡」(2-18)、「鎧の渡解説-1・左ページ左」(2-17)、「鎧の渡解説-2・右ページ中程まで」(2-19)、「山王祭・其二」(2-21)、「山王祭・其三」(2-22)
鎧之渡(拡大図)
[絵は鎧の渡しの東側、行徳河岸の箱崎川に架かる箱崎橋から南茅場町方向を描いたものです。其二、其三は山王祭の神輿渡御図で、其二に箱崎川に架かる箱崎橋と左上に日枝山王旅所が描かれている。また、其三で日本橋川に架かる湊橋と越前堀(亀島川)に架かる霊岸橋が描かれている。]
山王祭・其二(拡大図)
山王祭・其三(拡大図)
狂歌江都名所図会 – 新川・鎧の渡(拡大図)
絵本江戸土産 – 鎧の渡(拡大図)
「名所江戸百景」[歌川(安藤)広重]・鎧の渡し小網町ファイル:100_views_edo_045.jpg
カメラ初期設定方向・「P」標識下に鎧の渡し説明板があります。
鎧の渡し説明板(Google Map 画像)