マーカーは柳生藩柳生家中屋敷跡です。
柳生藩柳生家
[柳生藩(やぎゅうはん)は、大和国添上郡柳生郷(現奈良市柳生地区)を治めた藩。石高1万石程度の小藩であったが、藩主家の柳生家(江戸柳生家)は代々将軍家の剣術指南役として幕閣に重きをなした。藩庁は柳生陣屋。
藩祖である柳生宗矩の死後、1万2500石の所領は、有名な長男の柳生三厳(十兵衛)に8300石、三男の柳生宗冬に4000石、四男の六丸(列堂義仙)に200石、と分知されたため、柳生家は大名から旗本となった。三巌の死後、宗冬がその家督と遺領を継ぎ(4000石は幕府に返上)、さらに寛文8年(1668年)1700石を加増され、1万石を領する大名に復帰する。藩庁は柳生陣屋。
代々の藩主は将軍家の剣術指南役を務めるため、江戸に定府していた。以後、柳生家が13代にわたって支配し、明治時代を迎えた。 (wikipedia・柳生藩より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 四ツ谷絵図(嘉永三年・1850年)」[絵図下・内藤駿河守(高遠藩)下屋敷の左に田安殿下屋敷が描かれ、田安殿の上に柳生但馬守下屋敷が描かれています)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [14]拾九元(嘉永五年・1852年)」(コマ番号3/5・地図中央右方向に田安殿下屋敷が描かれ、その左に柳生但馬守中屋敷と記述されています。また、その田安殿上方に木戸が描かれています。)
カメラ位置は東京おもちゃ美術館南端で、カメラ南方向道路右側、新宿通りの一筋北までが柳生藩柳生家中(下)屋敷跡になると思います。