田安徳川家下屋敷跡(田安・鎮護稲荷神社神社)

マーカーは田安・鎮護稲荷神社神社です。

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP566・コマ番号327/553から田安徳川家屋敷の変遷について記載されています。P568・コマ番号328/553「下屋敷 四谷大木戸」がこの地になります。

田安・鎮護稲荷神社神社
[所在地 新宿区四谷4-15
  田安稲荷神社
 この地は、もと四谷永住町と云って町屋が出来たのは明治5年(1872)7月で戸数は27戸、人口94人(男46人・女48人)、車馬4台と、本当に草深い町で、その前年の明治4年(1871)5月迄は田安徳川家下屋敷でした。
 田安徳川家は徳川8代将軍徳川吉宗公が作った御三卿(田安・一橋・清水)の一つで吉宗公の次男徳川宗武享保14年(1729)田安徳川家の家祖(10万石)となり江戸城北の丸(現日本武道館のある北の丸公園)に上屋敷を構え、宝暦6年(1756)四谷大木戸御門(四谷4丁目交差点)内の地に下屋敷をつくりました。その折、田安徳川家の屋敷神様として田安稲荷神社をおまつりし代々の当主の崇敬深く、子孫繁栄、天下泰平を願ったものです。明治維新後下屋敷を明治政府に上納、明治4年(1871)5月に広大な家屋を撤去したのですが、稲荷社だけはそのまま取り残されました。翌年跡地に町屋が出来、四谷永住町と名付けられ、代々この地に住む人達が大切におまつりしてまいりました。
  鎮護稲荷神社
 鎮護稲荷神社は鎮火招福の守り神様として家内安全を願っておまつりしていたもので、当町10番地内にあった小で田安家と同じく明治4年(1871)迄は、徳川将軍家剣の指南役、柳生家(1万石)の下屋敷があった所で柳生家の稲荷神社でした。戦後、田安稲荷と合祀し、22番地内に田安・鎮護稲荷神社としておまつりしてまいりましたが、ビル建設のため、町会会館内にお移しちて町会が運営にあたり毎年二の午の日に祭礼を行い町民の皆様の崇拝をいただいておりました。当地におまつりして247年、始めは田安徳川家、柳生家の守護神として、明示維新後は代々この町に住む人々の守り神として、私達の町をお守り下さってまいりました。
 この度、当地15番地にマンション(パークアクシス四谷ステージ)を建設された近鉄不動産株式会社、マンション完成後、所有者になられた三井不動産株式会社には両稲荷神社の縁起をご理解され、マンション敷地内、緑地帯の一部に稲荷社の建設用地を提供して下さいました。町会は会員の皆様を始め、田安徳川家・地域の法人・団体・一般の方々の奉賛を得て稲荷神社の新社殿を竣工、町会会館内の仮宮より御遷座おまつり致しました。 平成14年(2002)2月16日 認可地緑団体 四谷四丁目町会 田安鎮護稲荷神社奉賛会  (「東京都新宿区の歴史 田安稲荷神社・鎮護稲荷神社」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 四ツ谷絵図(嘉永三年・1850年)」[絵図下・内藤駿河守(高遠藩)下屋敷の左に田安殿下屋敷が描かれ、田安殿の上に柳生但馬守下屋敷が描かれています)

国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸絵図. 9号」(コマ番号3/5・絵図四つ切右下「内藤駿河守下屋敷」の左上に「田安殿」「田安殿抱屋敷」が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [14]拾九元(嘉永五年・1852年)」(コマ番号3/5・地図中央右方向に田安殿下屋敷が描かれ、その左に柳生但馬守中屋敷と記述されています。また、その田安殿上方に木戸が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 田安家邸園図

田安鎮護稲荷神社 – Google Map 画像リンク

カメラ南西方向が田安・鎮護稲荷神社神社です。

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