大和新庄藩(櫛羅藩)永井家下屋敷跡

マーカーは永井家下屋敷跡です。

関連リンク – イギリス大使館(七日市藩前田家・大和新庄藩永井家・七戸藩南部家各上屋敷跡)

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP711・コマ番号399/553から櫛羅藩(大和新庄藩)の変遷について記載されています。P713・コマ番号400/553「下屋敷 権田原」がこの地になります。

大和新庄藩(櫛羅藩)永井家下屋敷跡
[新宿区信濃町の由来は、当地に江戸時代幕臣永井尚政(信濃守)の屋敷があったことによっている。  (wikipedia・信濃町_(新宿区)より)]

[永井 尚長(ながい なおなが)は、丹後宮津藩の第2代藩主。永井家宗家4代。
延宝8年(1680年)5月に第4代将軍徳川家綱が死去すると、6月26日に芝の増上寺で法会が行われ、尚長はその奉行に任じられた。ところが法要の最中、志摩鳥羽藩主で方丈口勤番を務めていた内藤忠勝に刺殺された。享年27。殺害された理由は忠勝の狂気のためと『徳川実紀』などの史料には記されているが、忠勝との不和が原因とも、逆に尚長が忠勝に遺恨をもって切りかかったが返り討ちにあったという説もある。
尚長には嗣子がなく、また殺害された経緯から改易に処された。しかし後に弟の永井直圓に1万石が与えられ、大和新庄藩主として大名永井宗家を再興している。  (wikipedia・永井尚長より)]

[永井 直壮(ながい なおさか、弘化3年(1846年)- 慶応元年8月19日(1865年10月8日))は、大和新庄藩の第8代藩主。大和櫛羅藩の初代藩主。永井家宗家12代。  (wikipedia・永井直壮より)]

[鮫川の水源は永井家屋敷山下と鐙ヶ淵(陽光寺抱地・現若葉公園)の2箇所で、元鮫河橋北町で合流し、鮫川橋付近で紀伊徳川家家老久野家屋敷から千日谷に沿った西方からの流れと合流し、紀伊徳川家中屋敷内の池に注ぎ、最終的に赤坂溜池に至った。  (wikipedia・鮫河橋より)]

右下赤丸が鮫河橋、左上青丸が鐙ヶ淵(陽光寺抱地・現若葉公園)、その下青丸が永井家屋敷山下です。(

国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸方角安見圖鑑 2巻. [2](延宝8 [1680])」[絵図右ページ上に永井信濃守(永井尚長)上屋敷が描かれています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 赤坂四谷鮫ヶ橋辺一円絵図(天保元・1831年調)」[コマ番号2/3・絵図中央左下方向、四谷信濃町道の両サイドに永井信濃守(永井直養)と記述されています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 四ツ谷絵図(嘉永三年・1850年)」[絵図中央右下方向に永井信濃守(永井直壮)下屋敷が描かれています。]

東京図測量原図 : 五千分 – (内題)東京府武蔵国赤坂区青山北町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治17・1884年)」(地図四つ切左上・四谷東信濃町下に永井邸が描かれています。)

江戸遺跡研究会会報 No.135」には永井家下屋敷跡の青山上水の痕跡についての調査結果が記述されています。

カメラ東方向が永井家下屋敷跡で、カメラ方向道路先が永井家屋敷山下になります。