マーカーは丸岡藩有馬家中屋敷跡です。
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有馬誉純
[有馬 誉純(ありま しげずみ)は、明和6年(1769年)4月17日、越前国丸岡藩第4代藩主有馬允純の長男として生まれる。安永元年(1772年)11月22日、父の死去により家督を継いだ。天明2年(1782年)7月1日、将軍徳川家治にお目見えする。天明4年(1784年)12月16日、従五位下左衛佐に叙任する。寛政3年(1791年)8月28日、奏者番に就任する。文化7年(1810年)6月28日、寺社奉行との兼任となる。文化9年4月4日、江戸城西の丸若年寄に就任する。
安永7年(1778年)、財政難打開のために年貢増徴を行ったため、一揆が起こった。このため、百姓側の要求を受け入れて年貢増徴を止めて大庄屋制度の廃止、「郷会所」設置による税制改革を行なった。また文治奨励し、文化元年(1804年)には藩校・平章館を創設し、藩士子弟の教育に努めた。また諸礼式の確立にも努め、『国乗遺聞』や『藤原有馬世譜』など藩史・地誌の編纂に力を注いでいる。
文政2年(1819年)8月6日、病気のために若年寄を辞任する。以降、帝鑑間詰めとなる。文政13年4月23日、養子の徳純に家督を譲って隠居し、天保7年(1836年)10月27日に死去した。享年68。 (wikipedia・有馬誉純より)]
有馬道純
[有馬 道純(ありま みちずみ、天保8年9月9日(1837年10月8日) – 明治36年(1903年)5月24日)は、播磨山崎藩主本多忠鄰の三男。曽祖父の本多忠可が丸岡藩第3代藩主有馬孝純の次男だったため、第7代藩主有馬温純の養子となる。寺社奉行、奏者番、若年寄、老中などを歴任し、幕閣として活躍した。
経歴
1837年(天保8年) 生誕
1855年(安政2年) 家督相続
1862年(文久2年)6月30日 寺社奉行就任( – 1863年1月22日)
1863年(文久3年)1月22日 若年寄就任( – 1863年7月5日)
1863年(文久3年) 老中
1864年(元治元年) 辞任。
1868年(慶応4年) 朝廷に恭順
1869年(明治2年) 版籍奉還、知藩事となる。
1871年(明治4年) 廃藩置県により知藩事免官。 (wikipedia・有馬道純より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 本郷湯島絵図(嘉永六年・1853年)」(絵図中央右に有馬日向守(有馬温純)中屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [33]貮拾壹元(安政三年・1856年)」(コマ番号2/7・絵図中央右下に有馬左兵衛佐(有馬道純)中屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 武州豊島郡駒込村絵図(写し)」(コマ番号3/3・絵図中央に有馬和四郎下屋敷と記述されています。)
カメラ位置は日本医大前交差点で、カメラ北西方向が丸岡藩有馬家中屋敷跡になると思います。江戸時代には左側の根津裏門通りの本郷通りへの接続は無く、カメラ皆に方向が本郷通りへの接続道でした。また右の医大前道もありませんでした。