マーカーは本妙寺跡と明暦の大火案内板です。
本妙寺跡と明暦の大火案内板
[<本妙寺跡と明暦の大火>
本妙寺(現在豊島区巣鴨5-35-6)は旧菊坂82番地(現本郷5-16)の台地一帯にあった法華宗の大寺院であった。寺伝によれば寛永13年(1636)にこの地に移ってきた。
境内には北山奉行“遠山の金さん”こと遠山左衛門尉景元、幕末の剣豪千葉周作や囲碁の本因坊歴代の墓所があった。
明暦3年(1657)の大火“振袖火事”の火元とされているが、原因は諸説ある。この大火後、幕府は防火対策を中心に都市計画を打ち出し、文京区の地域には寺社、武家屋敷などが多く移転してきて、漸次発展することとなった。 (「第四(本妙寺)校跡 – 写真紀行」より)]
本妙寺
[1590年(天正18年)家康の関東入国の際、武蔵国豊島郡の江戸城内に移った。1603年(慶長8年)、江戸の家康に征夷大将軍宣下が有った。その後寺地を転々とし、1616年(元和2年)小石川(現在東京都文京区)へ移った。1636年(寛永13年)、小石川の伽藍が全焼し、幕府から指定された替地の本郷丸山(東京都文京区本郷五丁目)へ移った。現在も本郷五丁目付近に「本妙寺坂」なる地名が残されている。本郷時代には塔頭7院を有した(円立院、立正院、妙雲院、本蔵院、本行院、東立院、本立院)。1657年(明暦3年)の大火(いわゆる明暦の大火)ではこの寺の御施餓鬼のお焚き上げから火が出たとも伝えられる(異説有り)(そのため、現在の豊島区の境内の墓地には明暦の大火で亡くなった人々の菩提を弔うために建てられた供養塔がある)。1667年(寛文年間)、幕府により、法華宗勝劣各派の触頭となる。1910年(明治43年)現在の豊島区巣鴨五丁目(※現本妙寺)の地へ移転した。 (wikipedia・本妙寺_(豊島区)より)]
本妙寺資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 本郷湯島絵図」(絵図中央付近に「本妙寺」が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 浅草下谷本郷辺絵図」(コマ番号5/5・絵図中央右下方向に「本妙寺」が描かれています。)
カメラ東北東方向に本妙寺跡と明暦の大火案内板があります。