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樋口一葉菊坂旧居跡
[一葉は1872年(明治5年)5月2日(旧暦3月25日)、東京府第二大区一小区内幸町の東京府庁構内(現在の東京都千代田区)の長屋(官舎)で東京府の下級役人の樋口則義と多喜(旧姓・古屋)の次女として誕生する。姉のふじ、兄に泉太郎、虎之助がおり、一葉の後に妹くにが生まれた。 幼児期から利発で言葉が出るのも早く物覚えがよかったという。 1877年(明治10年)、満4歳10か月で公立本郷小学校に入学するが、幼少のためにほどなく退学し、半年後、吉川富吉が始めた私立吉川学校に入学した。一葉の日記「塵之中」によれば、幼少時代は手毬や羽根つきなど同年代の子供の遊びに興味がなく、読書を好み草双紙の類いを読みふけっていた。曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』を3日で読破したとも伝えられている。 1881年(明治14年)、素行が悪く金銭問題などをおこしていた次兄の虎之助が分家し、陶器絵付師に弟子入りするという形で勘当される。同年には下谷区御徒町へ移ったため、11月に上野元黒門町の私立青海学校に転校する。ここで初めて和歌を習う。1883年(明治16年)12月、高等科第四級を首席で卒業するも、上級に進まずに退学した。これは母・多喜が、女性に学業は不要だと考えていたからだという。
一方、父・則義は向学心やまない娘のため、知人の和田重雄のもとで和歌を習わせた。1886年(明治19年)、父の旧幕時代の知人である医師の遠田澄庵の紹介で、中島歌子の歌塾「萩の舎(はぎのや)」に入門。ここでは和歌のほか千蔭流(加藤千蔭)の書や王朝文学の購読を学んだ。萩の舎は当時、公家や旧大名などの旧体制、明治政府の特権階級の政治家・軍人の夫人や令嬢らが通い、門人は千人を超える歌塾だった。士族とはいえ下級役人の娘だった一葉は平民の伊東夏子、田中みの子と仲良くなり「平民三人組」と称した。入門の翌年、二月に行われる新春恒例の発会が近づくと、令嬢たちの晴れ着の話題など、着物の話はとても下級官吏の娘が競える内容ではなかった。一葉は気おくれしながらも親が借りてきた古着で出席した。この発会の歌会で一葉は最高点を取っている。
名家の令嬢であった田辺花圃(本名・龍子)は「思い出の人々」という自伝の中で、「萩の舎」の月例会で、友人と床の間の前で寿司の配膳を待ちながら「清風徐ろに吹来つて水波起らず」という赤壁の賦の一節を読み上げていたら、給仕をしていた猫背の女が「酒を挙げて客に属し、明月の詩を誦し窈窕の章を歌ふ」と口ずさんだのに気付いて、「なんだ、生意気な女」と思っていたら、それが一葉で、先生から「特別に目をかけてあげてほしい」と言われて紹介されたと、初めて一葉と会ったときのエピソードを紹介し、一葉は女中と内弟子を兼ねた働く人のようだったと書いている(このとき一葉15歳、花圃18歳。のちに2人は萩の舎の二才媛と呼ばれた)。このように入門当初は才気煥発なところを見せていた一葉だったが、周囲との格差から次第に内向的になり「ものつつみの君」と呼ばれるようになった。
樋口家の戸主であった長男の泉太郎は、1885年(明治18年)に明治法律学校(明治大学の前身)に入学したが1887年(明治20年)に退学し、その後則義の知人の紹介で大蔵省出納局に勤務していたが、12月27日、肺結核で死去。一葉は父を後見に相続戸主となる。1889年(明治22年)、警視庁を退職した則義は家屋敷を売った金をつぎ込み荷車請負業組合設立の事業に参画するが、出資金をだましとられて失敗、負債を残して同年7月に死去する。一葉は17歳で樋口家を背負うことになった。
樋口家は次男の虎之助を頼ったが、母と虎之助の折り合いが悪く、1890年(明治23年)には一葉が萩の舎の内弟子として中島家に住みこむ。しかし歌塾の手伝いだけでなく女中のような勝手仕事までさせられたため5か月で辞める。同年9月には本郷菊坂(東京都文京区)に移り母と妹と3人での針仕事や洗い張り、下駄の蝉表(せみおもて。細い籐を編んだもの。夏用の駒下駄の表に張るのに使う)作りなどの賃仕事をするが、それだけでは足りず、方々に借金を繰り返す苦しい生活を強いられる。
「萩の舎」同門の姉弟子である田辺花圃が1888年(明治21年)小説『薮の鶯』を出版し、33円という多額の原稿料を得たのを知っていた一葉は、明治22年頃より小説を書こうと決意する。
1891年(明治24年)、数え年20歳で『かれ尾花』などいくつか習作を執筆する。同年4月、妹のくにの知り合いの野々宮菊子の紹介で、東京朝日新聞専属作家の半井桃水(なからい とうすい)に師事し、指導を受ける。1892年(明治25年)3月に半井は同人誌「武蔵野」を創刊し、一葉は『闇桜』を「一葉」の筆名で同誌創刊号に発表した。半井は一葉を東京朝日新聞主筆の小宮山桂介に紹介する。しかし一葉の小説は採用されず、新聞小説で原稿料を得ようとした一葉は落胆する。
また2人の仲の醜聞が萩の舎で広まったため、中島歌子や伊東夏子に交際を反対され、6月22日、桃水と絶交。その後、一葉は上野図書館に通い独学する。田辺花圃の紹介で、これまでとはスタイルの異なる幸田露伴風の理想主義的な小説『うもれ木』を雑誌『都之花』に発表。初めて原稿料11円50銭を受け取る。このうち6円は借金の返済にあてられた。
三宅花圃の紹介で、『文学界』創刊号に『雪の日』を発表。同人の平田禿木の訪問を受け親しく語り合う。その後筆が進まない一葉は、生活苦打開のため1893年(明治26年)7月、吉原遊郭近くの下谷龍泉寺町(現在の台東区竜泉一丁目)で荒物と駄菓子を売る雑貨店を開く。この時の経験が後に代表作となる小説『たけくらべ』の題材となっている。1894年(明治27年)5月には店を引き払い、本郷区丸山福山町(現在の文京区西片一丁目・樋口一葉終焉の地)に転居する。萩の舎と交渉し、月2円の助教料が得られるようになった。 (wikipedia・樋口一葉より)]
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カメラ南南西方向小路奥階段先に樋口一葉菊坂旧居跡があります。