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今治藩松平(久松)家関連リンク – 今治藩松平(久松)家上屋敷跡、今治藩松平(久松)家品川下屋敷跡、今治藩松平(久松)家深川下屋敷跡、今治藩松平(久松)家小石川下屋敷跡(元東京府尋常師範学校)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP362・コマ番号225/553から今治藩屋敷の変遷について記載されています。P364・コマ番号226/553「下屋敷 小石川後薬園」がこの地になります。
[旧 白山御殿町(はくさんごてんまち)
(昭和41年までの町名)
町の大部分は、白山御殿の跡である。
承応(じょうおう)元年(1652)館林藩主徳川綱吉 が、別邸を与えられた。ここは白山神社の鎮座(ちんざ)地であったので、白山御殿(小石川御殿)と称した。綱吉が五代将軍に就任後、御殿は廃止されて幕府の御薬園となった。それで付近の土地を併せて白山御殿跡地と称した。
周辺を合併して明治24年、新たに町をおこした。町名は、俗にいう白山御殿跡から白山御殿町とした。
小石川薬園は、明治10年、東京大学付属の小石川植物園となった。また、江戸時代小石川養生所(ようじょうしょ)が薬園内に開かれた。青木昆陽(あおきこんよう)が甘藷の試作を行なったのも、この薬園内であった。
文京区 (「旧 白山御殿町(はくさんごてんまち) – Monumento …」より)]
小石川御薬園跡(小石川植物園)
[元々は東京大学が開設した施設ではなく、江戸幕府によって開園された、小石川御薬園(こいしかわおやくえん)であった。幕府は、人口が増加しつつあった江戸で暮らす人々の薬になる植物を育てる目的で、1638年(寛永15年)に麻布と大塚に南北の薬園を設置したが、やがて大塚の薬園は廃止され、1684年(貞享元年)、麻布の薬園を5代将軍徳川綱吉の小石川にあった別邸に移設したものがこの御薬園である。その後、8代徳川吉宗の時代になり敷地全部が薬草園として使われるようになる。1722年(享保7年)、将軍への直訴制度として設置された目安箱に町医師小川笙船の投書で、江戸の貧病人のための「施薬院」設置が請願されると、下層民対策にも取り組んでいた吉宗は江戸町奉行の大岡忠相に命じて検討させ、当御薬園内に診療所を設けた。これが小石川養生所であり、 山本周五郎の連作短編小説『赤ひげ診療譚』や、この作品を映画化した黒澤明監督作品の『赤ひげ』は、養生所を舞台とした医師の物語である。なお、御薬園は、忠相が庇護した青木昆陽が飢饉対策作物として甘藷(サツマイモ)の試験栽培をおこなった所としても有名である。その後、明治期に入り、東京帝国大学が1877年に開設されると、同大学理科大学(現・理学部)の附属施設となり、広く一般植物などを多種そろえた植物学の研究施設として生まれ変わった。同時に、一般にも公開されるようになった。1897年には本郷キャンパスにあった植物学教室が小石川植物園内に移転し、講義棟も建設され、植物学に関する講義も行われることになった(1934年に植物学教室は本郷に再移転)。1998年より、現在のように大学院理学系研究科の附属施設となった。理学部→理学系研究科の付属施設ということもあり、毎年5月に理学系研究科・理学部の学生・教職員交歓会が開催されている。
「旧小石川養生所の井戸。1923年の関東大震災では飲み水として利用された。」・wikipedia-photo、「アイザック・ニュートンのリンゴの木」・wikipedia-photo、メンデルのブドウ・wikipedia-photo、日本庭園・wikipedia-photo、「温室。現在老朽化の為、立て替えに向けての募金活動を行っている。」・wikipedia-photo、イロハモミジ並木・wikipedia-photo (wikipedia・東京大学大学院理学系研究科附属植物園より)]
「東京大学大学院理学系研究科附属植物園ホームページ」 – 「園内案内図」

「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 駒込絵図(嘉永七年・1854年)」(絵図下・ゴテン坂とアミホシサカの間、現在の小石川植物園の範囲で、御薬園が描かれています。そこに養生所と記述されています。)
「国際日本文化研究センター – 東都小石川繪圖(安政4・1857年)」[絵図上に小石川御薬園が描かれていますが、ゴテンサカ左に松平駿河守(松平勝道)下屋敷とナベワリサカ右に旗本丹羽五左エ門下屋敷がある。]
「国立国会図書館デジタルコレクション – ゑ入江戸大繪圖(貞享4 [1687])」(コマ番号2/6・絵図四つ切右下に朱で白山御殿と記述されています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – ゑ入江戸大絵図(貞享1(1684)刊)」(絵図四つ切右下・里程表上に御薬園と記述されています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [23]貮拾元(嘉永七年・1854年)」(コマ番号4/5・絵図左端中央上、コマ番号4/5・絵図左上に御薬園が描かれて、中央に松平駿河守(松平勝道)下屋敷が描かれています。コマ番号5/5・絵図四つ切右上に御薬園が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [22]貮拾元(嘉永七年・1854年)」(コマ番号91/126・「天和年中(1681年-1684年)之形」、コマ番号92/126・元禄十一(1698)年之形では御殿と記述され、コマ番号93/126・正徳三(1713)年之形では御殿跡地となっています。コマ番号94/126・正徳四-六(1714-1716)年之形では左ページ・ナベワリサカ下に御薬園と記述され、残りは武家地になっています。コマ番号95-99/126でその後の変遷が描かれています。コマ番号98/126・嘉永七年之形、コマ番号99/126・当時之形には松平駿河守(松平勝道)と丹波五左エ門が描かれ、ナベワリサカ上の丹波五左エ門は「ゑ入江戸大絵図(貞享1(1684)刊)」にも描かれています。
コマ番号111/126・延宝年中(1673年-1681年)之形でナベワリサカ右に館林殿と記述されています。コマ番号112/126・「天和年中(1681年-1684年)之形」で、ナベワリサカ右方向に御殿と記述されています。コマ番号113/126・元禄十一(1698)年之形でアミホシサカ右が御殿と記述されています。コマ番号114/126・正徳三(1713)年之形で御殿跡地と記述されています。コマ番号115/126・正徳四-六(1714-1716)年之形、コマ番号116/126・享保二(1717)年之形、では武家地になっています。享保七(1722)年之形では御薬園になっています。その後コマ番号118-120/126と変遷が描かれていますが、現在の小石川植物園の敷地が小石川御薬園の全敷地であったことがないと思われます。)
「正門受付発売所(小石川植物園) – Google Map 画像リンク」、「メタセコイア林(小石川植物園) – Google Map 画像リンク」、「薬園保存園(小石川植物園) – Google Map 画像リンク」、「分類標本園 – Google Map 画像リンク」、「シダ園(小石川植物園) – Google Map 画像リンク」、「柴田記念館(小石川植物園) – Google Map 画像リンク」、「メンデルのブドウ(小石川植物園) – Google Map 画像リンク」、「ニュートンのリンゴ – Google Map 画像リンク」、「公開温室(小石川植物園) – Google Map 画像リンク」、「ツツジ園(小石川植物園) – Google Map 画像リンク」、「甘藷試作跡 – Google Map 画像リンク」、「旧養生所の井戸(小石川植物園) – Google Map 画像リンク」、「精子発見のイチョウ – Google Map 画像リンク」、「ハンカチノキ – Google Map 画像リンク」、「ラクウショウ(小石川植物園) – Google Map 画像リンク」、「ハギ園(小石川植物園) – Google Map 画像リンク」、「ウメ園(小石川植物園) – Google Map 画像リンク」、「関東大震災記念碑 – Google Map 画像リンク」、「スズカケノキ(小石川植物園) – Google Map 画像リンク」、「ユリノキ(小石川植物園) – Google Map 画像リンク」、「サネブトナツメ(小石川植物園) – Google Map 画像リンク」、「樹木園(小石川植物園) – Google Map 画像リンク」、「日本庭園を望む東屋(小石川植物園) – Google Map 画像リンク」、「マツ林(小石川植物園) – Google Map 画像リンク」、「日本庭園(小石川植物園) – Google Map 画像リンク」、「旧東京医学校本館 – Google Map 画像リンク」、「東京大学総合研究博物館小石川分館 – Google Map 画像リンク」、「東京大学大学院 理学系研究科附属植物園小石川植物園事務室 – Google Map 画像リンク」
カメラ北方向が、小石川御薬園跡(小石川植物園)です。
カメラ東方向・小石川植物園西口で、東大総合研究博物館小石川分室への出入り口です。
東大総合研究博物館小石川分室東側庭園のカメラです。
東大総合研究博物館小石川分室内のカメラです。