水戸徳川家上屋敷跡(東京ドーム)

マーカーは東京ドームです。

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水戸徳川家上屋敷跡(東京ドーム)
[1870年3月3日(明治3年2月2日 (旧暦))、兵部省に造兵司が新設され、1870年(明治3年)3月(旧暦)、造兵司は東京の旧幕府営の関口製造所滝野川反射炉を管轄とし、それらの設備を元に東京工場を小石川の旧水戸藩邸跡に建設した。
1935年(昭和10年)10月、東京工廠は小倉工廠へ移転を完了し、約66年間の歴史の幕を閉じた。跡地は払い下げられ、後楽園球場となった。
東京砲兵工廠(1930年(昭和5年)当時)・wikipedia-photo  (wikipedia・東京砲兵工廠より)
「日本初の職業野球」日本運動協会(芝浦協会)の創始者で、かねてからフランチャイズ制を提唱していた河野安通志押川清は、東京の都心に職業野球専用の新球場を建設しようと計画。読売新聞社正力松太郎阪急電鉄小林一三らの出資を仰いで、1936年(昭和11年)12月に株式会社後楽園スタヂアムを設立した。東京砲兵工廠が移転したため空き地になっていた国有地を払い下げで取得し、内野2階建てスタンド(バックネット裏はアメリカンスタイルで、グラウンドの最前線までスタンドがせり出す形式を採用)を持つ野球場が建設され、1937年(昭和12年)9月に開場した。また同じ年に後楽園は直属の職業野球団として後楽園野球クラブ(イーグルス=のちに黒鷲軍、大和軍と改称)を設立し、押川が社長、河野が常務兼総監督に就任して、球場内に球団事務所が置かれた。球場の名は隣接する小石川後楽園にちなんでいる。
「後楽園球場(右)と後楽園競輪場(中央)国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成」・wikipedia-photo  (wikipedia・後楽園球場より)
現在の東京ドームは、1988年(昭和63年)3月18日に後楽園球場の実質的な代替球場として後楽園競輪場の跡地に開場された。日本初の屋根付き球場であり、株式会社東京ドームが運営する東京ドームシティの中核施設である。愛称は「BIG EGG(ビッグエッグ)」。
空気膜構造屋根を持つアメリカのメトロドームをモデルとして設計された。 後楽園球場から引き続き、プロ野球セントラル・リーグ読売ジャイアンツ(巨人)とパシフィック・リーグ日本ハムファイターズ(当時)が専用球場とした。
日本ハムは2004年(平成16年)度に北海道札幌ドームに移転し「北海道日本ハムファイターズ」となったが、現在も8試合の主催試合を開催している(試合数は2007年(平成19年)から固定)。
「国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成中央付近の白い建物。1989年撮影」・wikipedia-photo、東京ドーム・wikipedia-photo、東京都文京区後楽一丁目付近の風景・wikipedia-photo、ライトアップされた東京ドーム(2013年11月)・wikipedia-photo、東京ドーム 4階席からのフィールド全景・wikipedia-photo、天井・wikipedia-photo、センタースピーカー・wikipedia-photo  (wikipedia・東京ドームより)]

東都小石川繪圖」(絵図右下に水戸殿と描かれています。)、「小石川谷中本郷繪圖」(絵図左上に水戸殿と描かれています。)

国立国会図書館デジタル化資料 – 御府内往還其外沿革図書」 – 「十二之二[134] -9/134、10/134」(絵図中央に水戸殿と描かれています。)

東京図測量原図 : 五千分 – (内題)東京府武蔵国麹町区飯田町及小石川区小石川町(五千分一東京図測量原図のうち)(明治16・1883年)」(地図上中央・後楽園及びその周辺砲兵工廠第一砲兵方面が水戸徳川家上屋敷跡になります。)、「(内題)東京府武蔵国小石川区小石川表町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治16・1883年)」(地図下中央・砲兵工廠の部分が水戸徳川家上屋敷跡になります。)

東京市小石川區全圖 : 明治四十年一月調査 – (題箋)番地入東京市小石川區全圖(明治40・1907年)」(地図右下・小石川町、陸軍砲兵工科学校及び東京砲兵工廠が水戸徳川家上屋敷跡になります。)

カメラ西南西方向が東京ドームです。

カメラ西南西方向が太平洋戦争などで戦死した日本プロ野球選手の功績を記念した鎮魂の碑です。

東京ドーム内のストリートビューです。

東京ドーム、フィールド内のストリートビューです。

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