マーカーは山本山本社が入る日本橋高島屋ビルです。
山本山
[株式会社山本山(やまもとやま)は、海苔とお茶を製造している食品メーカー。『日本最古の煎茶商』で『玉露を発明』したことで知られている。本社所在地は東京都中央区日本橋二丁目。「上から読んでも山本山。下から読んでも山本山」というキャッチフレーズで広く知られる。
創業者の嘉兵衛は、山城国(京都府南部、概ね京都市以南)にある宇治山本村(現在の同府宇治市山本)というところでお茶を作っていた。日々お茶を作る中で「宇治のおいしいお茶を、もっと多くの人に味わってもらいたい」という思いを抱き江戸に行く。1690年(元禄3年)に日本橋で和紙やお茶、茶器類等を扱う「鍵屋」を開業。
4代目の嘉兵衛の時に大きなチャンスが訪れる。永谷宗円(永谷園の創業者・永谷嘉男の先祖。嘉男は宗円の10代後の子孫である)が宇治茶の煎茶を開発、山本山は江戸で委託販売して莫大な財を成すことになった。当時の煎茶は日干しで乾かした茶色い黒茶で味も良くなく、宗円が発明した煎茶は美しい黄緑色と、適度の渋み、苦みに、旨味、甘味を実現した画期的なものだった。さらに4代目の山本嘉兵衛は商品名に「天下一」と名付けて売り出すことで、江戸そして、全国で圧倒的な人気を博した。以降、山本家は永谷家に対して1875年(明治8年)まで毎年小判25両をお礼として贈り続けた。
※山本山(江戸時代)/茶問屋山本(現:株式会社山本山)の店頭 歌川広重「東海道五十三次 日本橋朝之景」にて
当時の江戸は1657年(明暦3年)の「明暦の大火」で大被害に見舞われており、全国各地から腕利きの職人が上京し、江戸の町を復興させようという動きだった。以前は「1日2食」の質素な食事が基本だった庶民の食を蕎麦、寿司、天ぷらといった屋台がどんどんでき始め、山本山は「煎茶」を推進、飲料文化を急速に加速させた。
6代目の嘉兵衛徳翁は、1835年(天保6年)宇治小倉郷の木下吉左衛門宅にて製茶中の茶葉を露のように丸く焙ることを思いついて、やってみたところ甘露の味わいの絶品に仕上がることを発見。これこそが今日にも至る高級茶葉「玉露」の発明だった。 (wikipedia・山本山より)]
『江戸買物独案内』画像データベース(早稲田大学)の江戸買物獨案内 上・下巻・飲食之部(下巻 / 内容画像124・下画左ページ左)に山本屋が掲載されている。
狂歌江都名所図会 – 山本(拡大図)
[図会左ページ左上に山本と記述され、その左の店の暖簾に山本の屋号紋が描かれています。]
カメラ東方向が山本山本社が入る日本橋高島屋ビルです。