マーカーは城北信用金庫ビルです。
[八百善(やおぜん)は、江戸時代に会席料理を確立し、江戸で最も成功した料亭のひとつである。
享保年間に浅草山谷で創業して以来、栄枯盛衰を繰り返す。もともとは八百屋だったが、周囲に寺が多かったことから料理の仕出しを始め、次第に料理屋として評判を取るようになった。
文政期の四代目の当主栗山善四郎は、多才多趣味で当世一流の文人墨客との交流が深く、狂歌、絵師、戯作家の大田南畝(蜀山人)に「詩は五山 役者は杜若 傾はかの 芸者は小萬 料理八百善」と言わしめた。また、八百善が文政五年に刊行した『江戸流行料理通』は当時の料理テキストとも言うべきものだが、蜀山人・鵬斎(亀田鵬斎)が序文を寄せ、谷文晁、葛飾北斎らが挿画を描いて評判になり、江戸土産としても人気を博した。
徳川将軍家代々の御成りも仰ぎ、ペリー来航の際の饗応料理も担うなど、その名を江戸中にとどろかせた。また様々な文献にも登場し、「一両二分の茶漬け」や「はりはり漬」、「松皮鯛」、「きんとん」、「海老素麺」、「うつろ豆腐」、「嶺岡豆腐」、「鴨真蒸」、「中華玉子」など料理にまつわる数々の逸話も存在する。高級料亭の先駆け的存在として、江戸の食文化の形成において重要な役割を果たした。
古器物鑑定を橋本抱鶴に、茶道を浦江竹窓に学んだ八代目は、明治維新の際に金にあかせて古器物を買い集め、晩年息子の銑治に九代目を譲ったのち栗山全祐と改名し、屋敷内に博物館風の茶席「六窓庵」を造って収集品を愛玩し、明治45年(1912)に亡くなる際には古器物の保存と江戸式料理の維持を細かく遺言したという。明治期の八百善は、ロシアの皇太子ニコライ(後のロシア皇帝ニコライ2世)の接待料理を担当するなど、外国にもその名を知られた。山谷堀の名店として人気を集め、上野店も出したが、関東大震災で壊滅し、移転した。
現在は、十代目の栗山善四郎の指導の元、十一代目と目される栗山雄太郎が代表を務める『割烹家八百善株式会社』が、三越、小田急などの大手百貨店、また各通販業界において、八百善ブランドの江戸料理の高級惣菜、おせち料理等を提供している。 (wikipedia・八百善より)]
[江戸の料理茶屋の大立物といってもよい八百善を描く「山谷八百善」では、左手の縁側の向こうに家並みと富士山、右奥の窓から日本堤の風景を覗き見せてはいるが、画面の大半は芸者たちが武士客を接待している座敷内部の光景を描いている。長押には「文晁」と落款が読めそうな月に芒を描いた額が懸けられている。八百善の四代目主人栗原善四郎は、文政五年(一八二二)に『江戸流行料理通』という料理書を出版し、それに亀田鵬斎や大窪詩仏が序文を書き、谷文晁、酒井抱一、鍬形蕙斎、葛飾北斎、歌川国貞ら第一級の絵師たちが挿絵を寄せている。この額が、四代目主人栗原善四郎と当時の文化人たちとの広い交遊を連想させるようなモティーフだといえる。庭を含む店の内観を詳細に描いたこの類型に分類できるのは他に、 「大おんし前 田川屋」などで、合計四図となる。 (「錦絵に見る料理茶屋情報:「江戸高名会亭尽」を中心に」より)]
[「…私どもの商いの始まりについて、舅の八代目善四郎は、江戸もずっと昔、元亀(一五七〇~一五七二)、天正(一五七三~一五九一)のころ、徳川さんがまだ江戸に入城してこない以前から、善四郎という百姓が神田の福田村に住んでいたという言い伝えを話してくれた。
……屋号は神田福田村の、福田屋善四郎。元禄のころからは、八百屋善四郎がつまって通称八百善となり、その後は通り名の方が屋号になったということである。
機嫌の悪いときは、昔のことを聞いても、「わかりゃしないやネ、そんな大昔のことは」とそっけなかった八代目であるが、なにやら気に入った茶道具でも手に入れて上々の機嫌のときは、九代目や姑と茶をたてながら昔話をしてくれた。八百善が浅草の新鳥越に移った時期については、こんな風に言っていたのを覚えている。
「やはりなんだろうね、新鳥越に移ったのは明暦の大火(一六五七)のあとと言えるだろうね。吉原が盛んになってね、新鳥越付近は寺も多いし、大名家や金持などへの仕出し料理ぐらいから始まったのだろう。二代目善四郎のころは、もうずいぶんお出入りのお得意先も多かったろうね」…」。
栗山恵津子さんが書かれた「食前方丈 八百善物語」の中に、八百善の生い立ちが詳細に書かれていました。吉野橋近くに移ったのが、1600年後半といいますから、ビックリです。
★写真(画像リンク)正面の茶色いビル(城北信用金庫ビル)の所だとおもわれます。正面の通りは吉野通りで、戦前は浅草から千住に抜ける主要街道で、人通りも多かったようです。当時の地番で吉野町二一番地、現在で東浅草一丁目8-12付近です。 (「山谷 重箱を歩く」より)]
『江戸買物独案内』画像データベース(早稲田大学)の江戸買物獨案内 上・下巻・飲食之部(飲食之部 / 内容画像17・下画右ページ左)に八百善が掲載されている。
江戸高名会亭尽(歌川広重) – 山谷 八百善「狂句合 八百善へ大社市と神を」(wikipedia-photo)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 今戸箕輪浅草絵図(嘉永六年・1853年)」(絵図四つ切右下、山谷堀右の正法寺右上の浅草新鳥越二丁目に八百善があったと思われます。)
カメラ西方向が八百善があったとされる城北信用金庫ビルです。