小浜藩酒井家上屋敷跡

下地図のマーカーは小浜藩邸跡の碑と秋葉神社の場所を表示しています。

    [矢来公園に、小浜藩邸跡と杉田玄白生誕の碑(小浜藩邸跡碑と記された右横に杉田玄白生誕の碑と記されています)がリスの親子の像の隣に、4年前建立されました。碑の根本には、小浜藩邸跡と杉田玄生誕の碑の説明文があります。
    若狭国(福井県)小浜藩主の酒井忠勝が、寛永5年(1628)徳川家光からこの地を拝領して下屋敷としたもので、屋敷の周囲に竹矢来をめぐらせたことから、矢来町の名が付けられました。もと屋敷内には、小堀遠州作になる庭園があり、蘭学者として著名な杉田玄白先生もこの屋敷内で生まれました」と書かれています。  (「東京 神楽坂 ガイド-矢来公園(やらいこうえん)」より)]

    [江戸時代神楽坂駅の南側には若狭小浜藩主酒井家の広大な屋敷地(牛込矢来屋敷)が広がっていました。3代将軍徳川家光の治世下、小浜藩主酒井忠勝は老中大老職を勤めていましたが、家光は忠勝の矢来屋敷を頻繁に訪れています。明暦3年(1657)に起きた明暦の大火で、江戸城が焼け落ちます。天守閣も焼失し、以後再建されることはありませんでしたが、4代将軍徳川家綱は江戸城からこの屋敷に避難してきたそうです。警備の御家人たちは抜き身の槍で警護の任にあたりましたが、その様子を模して、酒井家では屋敷の周囲に竹矢来を作ったと言います。いつしかこの竹矢来が評判となって、牛込屋敷周辺は「矢来下」と呼ばれるようになりました。明治に入ると、この屋敷を中心として町が区画され、牛込矢来町と命名されます(現在は新宿区矢来町)。ところで、「解体新書」で知られる杉田玄白は、小浜藩に仕える医者でした。享保18年(1733)に、この牛込屋敷で生まれています。平成16年(2004)9月に、新宿区は小浜市を通じて「小浜藩下屋敷説明碑」、「杉田玄白生誕地顕彰碑」の寄贈を受け、この矢来公園に設置しました。矢来屋敷という江戸の名残が、21世紀に入って、この地に刻まれたというわけなのです。  (「江戸の名残を歩く <神楽坂変>」より)]

    [第12代藩主・並びに第14代(最後)の藩主となった酒井忠義は、幕末期の京都所司代としては有名な人物である。忠義は井伊直弼に協力して安政の大獄を積極的に京都で推し進め、和宮降嫁や公武合体武田耕雲斎率いる天狗党の乱鎮圧などで活躍した。慶応4年(1868年)の戊辰戦争で、忠義は幕府側に与して新政府軍と戦ったが、敗れて降伏した。その後、小浜藩は新政府より北陸道鎮撫使の先鋒を命じられ、奥羽まで転戦した。  (wikipedia・小浜藩より)]

    国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [18]拾九利(嘉永五年・1852年)」[コマ番号4/7、7/7に酒井修理大夫(酒井忠義)下屋敷と描かれています。]

    国際日本文化研究センター – 市ケ谷牛込繪圖(安政4・1857年)」(絵図下中央に酒井若狭守(酒井忠義)上屋敷が描かれています。)

    東京図測量原図 : 五千分 – (内題)東京府武蔵国牛込区神楽町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治16・1883年)」(地図四つ切左上の牛込矢来町が小浜藩酒井家上屋敷跡になり、敷地左上に竹矢来が描かれています。)

    東京都立図書館アーカイブ – 東京市牛込区全図(出版年-1907)」(地図中央右上・牛込矢来町の神楽坂下が小浜藩酒井家上屋敷跡になります。)

    小浜藩邸の碑 – Google Map 画像リンク」、「杉田玄白生誕の碑 – Google Map 画像リンク」(地図

    小浜藩酒井家上屋敷は嘉永三年(1850)以前には筋違御門内・昌平橋側にあった。
    国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 駿河台小川町絵図」(嘉永三・1850年版元尾張屋清七)
    国際日本文化研究センター – 飯田町駿河臺小川町繪圖」[安政七年(1860)改正]では、小浜藩酒井家上屋敷が阿部伊予守(備後福山藩)になっている。当時の小浜藩主は酒井忠義で、安政5年(1858年)から文久2年(1862年)の間、京都所司代を務めていたので在京中で、阿部正弘が安政4年6月17日(1857年8月6日)、老中在任のまま江戸で急死しています。このような関係から屋敷替えが行われたと思われます。) 

    カメラ北東方向、矢来公園中心植え込みの中に小浜藩邸跡の碑があります。