マーカーは川村修富・修就屋敷跡です。
川村修富関連リンク – 雉子橋御用屋敷跡(川村修富生地)、川村修富拝領町屋
[川村修就の父・川村修富(ながとみ)は宝暦11年(1762年)、川村英政(つねまさ・御台様御広敷番之頭)の次男として雉橋御門の御長屋で生まれました。]
川村修就
[川村 修就(かわむら ながたか、寛政7年11月13日〈1795年12月23日〉 – 明治11年〈1878年〉4月8日)は、江戸時代の武士。川村修富の子。幼名は釜五郎。通称は庄五郎・清兵衛。号は精斎・閑斎。官位は対馬守・壱岐守・但馬守。
文化13年(1816年)、22歳で小十人格御庭番となる。文政12年(1829年)、両番格(「両番」とは小姓組、書院番のことで「格」とは準ずる意)御庭番、天保4年(1833年)賄頭になり、天保10年(1839年)御裏御門切手番に昇進。天保14年(1843年)、長岡藩の領地であった新潟港が収公され天領となると、その初代新潟奉行として任命された。以降、嘉永5年(1852年)まで奉行の役目をつとめた。その後は堺奉行、大坂町奉行と転進し、安政2年(1855年)、長崎奉行に就任。その後、小普請奉行や西丸留守居などを務めた後、元治元年(1864年)に高齢のため寄合となる。慶応3年(1867年)次男の帰元に家督を譲り、閑斎と号した。明治維新以降も東京にとどまって余生を送り、明治11年(1878年)に84歳で没した。
後年、川村家の子孫は、家に残った史料を、江戸時代のものは新潟市歴史博物館に、明治以降は江戸東京博物館にそれぞれ寄贈しており、新潟市歴史博物館には、修就の肖像画や、修就が300両で明珍に作らせたという腹巻など、ゆかりの品々が所蔵されている。
修就は当時の老中・水野忠邦の後ろ盾を得ており、そのため出世も順調であったという。姉の唯が御庭番の名家であった明楽家に嫁いでおり、当時勝手方、勘定奉行も歴任するなど相当の地位を確保していた明楽家の当主明楽茂村が、忠邦に修就を推薦したとも言われる。
長岡藩領であった新潟港では、唐物が安価で売られており、薩摩からの密貿易によって運ばれてきたのではないかという風聞が流れていた。修就は真偽を確かめるべく、飴屋に扮して新潟に潜入し情報収集を行ったと言われる。明治維新後、孫にあたる川村清雄が証言している他、小松重男も『新潟市史』に収録されている文書『北越秘説』『北越秘説付言』から、御庭番を指揮して捜査させたか、自ら新潟に赴いて調査したと推定している。 (wikipedia・川村修就より)]
[文政7年(1824年)川村修富は屋敷三方相対替(実際には金銭のやり取りがあるようです。)で須田右近から拝領屋敷を譲り受けます。天保元年に修富は従五位下諸大夫に任じられ「対馬守」を名乗り、「清兵衛」と言う通称を庄五郎(修就)に譲っています。
三方相対替内容 – 寛政4年(1792年)拝領した麹町二丁目横町100坪を御先手組同心・相田平八郎へ、相田平八郎は四谷内藤新宿裏通表番衆町の265坪を修富へ、同じ場所の255坪を小普請組の須田右近に、須田右近は表二番町法眼坂の497坪を修富へ渡すというもの。これにより、修富は表二番町法眼坂の497坪と四谷内藤新宿裏通表番衆町の265坪を手に入れました。 「旗本の経済学」より]
資料リンク
「国際日本文化研究センター – 東都番町大繪圖 : 安政再版(安政5・1860年)」(絵図中央右方向・法眼坂と表二番丁通の交点右に川村對馬守と描かれています。また、川村對馬守の左上に川村修就の妻の実家・宮重久右エ門が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 三」(コマ番号146/186、コマ番号147/186・地図中央右付近、麹町二丁目横町通の右方向に、川村仁右エ門と記述されています、コマ番号148/186・川村清兵衛と記述されています。コマ番号158/186・地図右下、法眼坂左に表二番町法眼坂の拝領地として川村清兵エが記述されています。コマ番号160/186・川村壱岐守と記述され、屋敷地は修就が拡充しています。川村壱岐守の右上に妻の実家・宮重久右エ門と記述されています。)
カメラ南南西方向に川村修就屋敷があった。