マーカーは三の丸大手門です。
江戸城配置図(内郭)(拡大図)
三の丸大手門
[江戸城大手門 – 渡櫓型の櫓門と高麗門からなる枡形門。関東大震災に倒壊後修復されたが、1945年(昭和20年)に東京空襲によって焼失。1963年(昭和38年)に木造復元により再建された。
江戸城の大手門。門をくぐると枡形、渡櫓門と続く・wikipedia-photo
(wikipedia・大手門より)]
[入国時は外郭とされ、日比谷入江と接していた。平川を濠に見立てて、堤防を兼ねた土塁には舟入用にいくつか木戸が設けられていた。以後は屋敷地とされていたが、二ノ丸拡張の煽りを受けて敷地が大幅に減少した結果、内郭に組み込まれ小さな御殿と下勘定所以外は空地となり登城大名の家臣の控え場になる。また、この時に大手門が二ノ丸から三ノ丸に移転している。三ノ丸大手門は、三ノ丸中央部の枡形虎口に桁行22間×梁間4間2尺の櫓門と高麗門で構成され、大手前を繋いだ。三ノ丸が屋敷地であった頃は下乗門が大手門であり、現在の大手橋は大橋と呼ばれていた。江戸時代、勅使の参向、将軍の出入り、諸侯の登城など、この門から行うのが正式であった。また、ここの警備は厳重をきわめ、10万石以上の譜代諸侯がその守衛に勤仕し、番侍10人(うち番頭1人、物頭1人)がつねに肩衣を着て、平士は羽織袴でひかえ、鉄砲20挺、弓10張、長柄20筋、持筒2挺、持弓2組をそなえ警戒にあたった。
三ノ丸大手門・wikipedia-photo
大手門渡櫓門・ファイル:Otemon.jpg
旧大手門渡櫓の屋根に飾られていた鯱・wikipedia-photo
『江戸城登城風景図屏風』(1847年、国立歴史民俗博物館所蔵)・wikipedia-photo
(wikipedia・江戸城より)]
[旧江戸城の正門で、大名はここから登城していました。大手門の高麗門をくぐって中に入ると、枡形と呼ばれる四角く囲まれた広場になっています。この枡形は、敵が城内にまっすぐに侵入するのを防ぐとともに、攻撃の際には兵の集合場所にもなる施設で、周囲の白壁には「狭間」という銃を撃つための穴があります。江戸城の城門の多くは、この形式でした。慶長11年(1606)藤堂高虎の設計といわれます。寛永6年(1629)の工事のときには酒井忠世が分担しました。左右の石垣は伊達政宗が築造しました。 (千代田区観光協会ホームページより)]
三の丸大手門資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 御江戸大名小路絵図」
「東都歳事記. 巻之1-4,附録 / 斎藤月岑 編纂 ; 長谷川雪旦 図画 ; 松斎雪堤 補画」・「元旦諸侯御登城図」(1-11)
元旦諸侯御登城図(拡大図)
[絵は平川門前あたりからの絵で、上方向の屋敷が酒井雅楽頭家上屋敷で、左の屋敷が一橋徳川家上屋敷です。]
江戸後期の三の丸大手門写真。
カメラ西方向が三の丸大手門高麗門です。
三の丸大手門高麗門
枡形内鯱前の360citiesです。
三の丸大手門枡形内のカメラで、カメラ北北東方向が渡櫓門、カメラ東南東方向が高麗門です。また、カメラ西南西方向にた旧大手門渡櫓の屋根に飾られていた鯱(明暦3年作)が設置されています。
三の丸大手門渡櫓門内のカメラです。