マーカーは東京駅内の北町奉行所跡の碑位置です。
「町奉行所の変遷」
北町奉行所
[この地域は、江戸時代には呉服橋門内と呼ばれ、文化三年(1806)から幕末まで北町奉行所が置かれていました。町奉行は、寺社奉行、勘定奉行とともに徳川幕府の三奉行のひとつで、今の有楽町駅前にあった南町奉行所と、ここ北町奉行所の二か所に分かれて交代で町人地の行政・司法・警察の職務を担っていました。名奉行として有名な遠山左衛門尉景元は、天保十一年から十四年(1840 – 1843)まで当所で執務をしていました。
平成十二年からの発掘調査では、北町奉行所の上水道や井戸、屋敷境などの遺構が発見されました。ここに復原した石組みの溝は、ここから西方約30メートルの地点で発見された、屋敷北東角の道路との境を巡る下水溝の一部です。この遺構は、本来3~4段の石積みであったものと思われますが、発見された時は最下段を残すのみでした。溝の角石が切り取ってあるのは、邪鬼が進入する鬼門である艮(うしとら:丑寅)の方角を防護するための呪術的な意味を示すものとされています。
都旧跡 北町奉行所跡
所在 東京都千代田区丸の内一丁目一番地国鉄所有地内
指定 大正七年四月
江戸町奉行は徳川幕府の職制の一つで寺社奉行、勘定奉行とともに三奉行と呼ばれていた。江戸町奉行は老中の支配に属し、配下の本所奉行、道役、小伝馬町牢屋、寄場奉行、町年寄を統轄した。その職掌は江戸府内の行政・司法・警察の一切にわたっていた。定員は二名で南北両奉行に分かれ月番で交替に執務したが時に応じて増減された。原則として旗本が任命され役科は三千石、芙蓉間詰で勘定奉行の上座、輩下に与力・同心などがいた。
「いれずみ奉行」として名高い遠山左衛門尉景元(遠山金四郎)は天保十一年(1840)三月から三年の間北町奉行の職にあった。
昭和四十三年十月一日 東京都教育委員会 (「北町奉行所跡 – 城めぐドットコム」より)]
[明治以降、奉行所は取り壊されてしまったが、北(東京駅八重洲口北側付近)・南(有楽町マリオン・有楽町イトシア)の両町奉行所が存在していたとされる場所には、今でも石碑が建っている。ただし、いずれも幕末期における町奉行所の位置であり、文化2年(1805年)以後に固定化された場所に相応している。
東京都千代田区丸の内トラストタワーN館前北町奉行所跡。再開発事業によって出土され再現された石組みの下水溝の一部(2020年5月)。wikipedia-photo
(wikipedia・町奉行より。)]
玉川上水樋管
「玉川上水留. [18] 玉川上水呉服橋御門大番所掛樋枡御普請一件 天保十一子年四月」(31/88・遠山左衛門尉役宅前に玉川上水樋管が描かれています。)
「町奉行所の変遷」
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 御江戸大名小路絵図(嘉永二年・1849年)」(絵図右下・呉服橋御門左上に北町奉行所が描かれています。)
「[御大名小路辰之口辺図] / 高柴三雄 誌(嘉永2[1849]年)」・「bunko01_01854_p0001.jpg」
「国立国会図書館デジタルコレクション」 – 「町奉行官宅」、「町奉行役宅」、「町奉行役宅図」、「町奉行所図」、「町奉行所図」
「天保十二丑年十月 北町奉行所住居向絵図面 | 江戸雑記録」
「北町奉行所 下水溝跡 – Google Map 画像リンク」、「江戸城外堀の石垣 – Google Map 画像リンク」
カメラ位置は丸の内トラストタワーN館前で、カメラ南南西方向丸の内トラストタワーN館左小路を進むと北町奉行所下水溝の一部が再現されています。
北町奉行所歴史散策マップ(Google Map 画像)
カメラ東方向歩道に玉川上水跡の床埋込ライティングが設置されています。
カメラ東北東方向植え込みに北町奉行所下水溝石組みの一部が再現され、カメラ南西方向歩道に玉川上水跡の床埋込ライティングが設置されています。
カメラ北西方向に北町奉行所下水溝石組みの一部が再現され、右に案内板が設置されています。
北町奉行所(玉川上水樋管)跡案内板(「Google Map 画像」より。)