マーカーは半蔵門です。
半蔵門
[半蔵門(はんぞうもん)は、江戸城(現在の皇居)にある門の1つである。
この門内は、江戸時代には吹上御庭と呼ばれ、隠居した先代将軍や、将軍継嗣などの住居とされた。現在は吹上御苑と呼ばれ、御所(今上天皇の住居)、吹上大宮御所(かつての香淳皇后の住居)、宮中三殿、生物学御研究所、天皇が田植えをする水田などがある。天皇及び内廷皇族の皇居への出入りには、主にこの門が用いられている。他の皇族は乾門を使用することが多い。一般人の通行は認められていない。太平洋戦争で旧来の門は焼失し、現在の門は和田倉門の高麗門を移築したものである。1986年(昭和61年)3月25日、過激派が半蔵門に向けてロケット弾を発射する事件が起きた。
半蔵門の名称については、この門の警固を担当した徳川家の家来服部正成・服部正就父子の通称「半蔵」に由来するとする説と、山王祭の山車の作り物として作られた象があまりにも大きかったために半分しか入らなかったことに由来するとする説がある。定説は前者であり、服部家の部下(与力30騎、伊賀同心200名)がこの門外に組屋敷を構え、四谷へと通じる甲州街道(現在の国道20号、通称麹町大通り・新宿通り)沿い一帯が旗本屋敷で固められていたことに由来するという。
皇居の半蔵門・wikipedia-photo (wikipedia・半蔵門より)]
絵本江戸土産 – 外櫻田 辨慶堀 麹町(拡大図)
[井伊侯の前より半蔵御門の間のお堀なり 両岸高く芝生にして碧緑眼を遮り 向ひには古松森然として 眺望また外に像なし (「絵本江戸土産くずし字を読む – 外桜田 弁慶堀 糀町」より)]
名所江戸百景[歌川(安藤)広重](糀町一丁目山王祭ねり込・wikipedia-photo)
[江戸時代の山王祭の山車行列
6月15日未明から、山王祭の山車行列が出発した。町内より山下御門を入り、日比谷御門の御堀端沿いに進んで桜田門の前で左に折れ、南番付坂を登って山王社の前で右に折れて御堀端通りに出る。半蔵門から城内に入り上覧を行ったのち、竹橋門を出て大手前の屋敷に沿って常盤橋御門を出る。 (wikipedia・山王祭_(千代田区)より)]
麹町(玉川上水樋管)図(スクロールしてご覧ください。「東京都立中央図書館 – 玉川上水絵図 」より。)
.jpg)
玉川上水樋管
「玉川上水留. [98] 御本丸掛吹上掛玉川上水麹町弐丁目より半蔵御門外石出枡迄樋枡御普請一件帳 元治元子年五月より丑四月 分冊ノ一」(21~27/131・半蔵門前、麹町一丁目周辺の玉川上水樋管が描かれています。)
「玉川上水留. [99] 御本丸掛吹上掛玉川上水麹町弐丁目より半蔵御門外石出枡迄樋枡御普請一件帳 元治元子年五月より丑四月 分冊ノ二」
「玉川上水留. [100] 御本丸掛吹上掛玉川上水麹町弐丁目より半蔵御門外石出枡迄樋枡御普請一件帳 元治元子年五月より丑四月 分冊ノ三」( 46~50/128・麹町一丁目の玉川上水樋管が描かれています。)
「玉川上水留. [101] 御本丸掛吹上掛玉川上水半蔵御門内外樋枡御修復一件帳 慶応元丑年四月より九月 分冊ノ一」(30~32/97・半蔵門内及び周辺の玉川上水樋管が描かれています。)
「玉川上水留. [102] 御本丸掛吹上掛玉川上水半蔵御門内外樋枡御修復一件帳 慶応元丑年四月より九月 分冊ノニ」(84~90/94・半蔵門内及び周辺の玉川上水樋管が描かれています。)
「玉川上水留. [103] 御本丸掛吹上掛玉川上水半蔵御門内外樋枡御修復一件帳 慶応元丑年四月より九月 分冊ノ三」(42,43/106・半蔵門内及び周辺の玉川上水樋管が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸城見附図 2巻. [1]」(コマ番号41-44/47・半蔵御門)
(拡大図)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 外桜田永田町絵図」(絵図左上に半蔵門が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 御江戸番町絵図」(絵図右上に半蔵門、代官町通りが描かれています。)
江戸後期の半蔵門前の写真。
半蔵門(Google Map 画像)
カメラ東方向が半蔵門で、西方向が麹町になります。