マーカーは和田倉門跡です。
和田倉門跡(和田倉橋)
[この橋を和倉橋といいます。ここには、かつて江戸城の守衛のために築かれた内郭門の一つ和田倉門がありました。橋を渡った皇居外苑側には枡形石垣があり、橋と一体で門を構成していました。慶長7年(1602)頃といわれる「別本慶長江戸図」には橋が描かれ、「蔵の御門と云、士衆通行の橋」と記述があります。また、「御府内備考」には、橋の由来が「慶長12年(1607)の頃の図に、ここに和田蔵と称せし大なる御蔵二棟を図せり。是御門の名の起る処なり。(後略)」と記され、蔵があったため門が名付けられたとしています。なお、徳川家康が江戸に入った時、この辺は和田倉という村落であったという説もあります。和田倉門には、鉄砲十挺・弓五張・長柄槍十筋・持筒二挺・持弓一組が常備されています。警備は、譜代大名で二万石から三万石の者が担当していました。この橋は、昔そのままに復興されたものですが、江戸城の門と橋を偲ぶのにふさわしい景観をみせています。 平成16年(2004)12月 千代田区教育委員会 (「東京都千代田区の歴史 2010年11月19日」より)]
[和田倉噴水公園の北東に位置する、公園の入り口の一つが和田倉門です。和田倉門は1620年(元和6年)の改築で東北の諸大名により枡形が構築されました。和田倉噴水公園内には、和田倉門の渡櫓門の石垣も残されています。そしてこちらの木橋(画像リンク)が和田倉橋。皇居のお濠に架かる橋で江戸時代の「木橋」の姿が残されているのは、この「和田倉橋」と「平川橋」のみです。この橋より内側は、大手門や桔梗門(内桜田門)から入場する大名や武士が通行する橋で、一般人は通ることができませんでした。建設年は不明ですが、1620年にはすでに存在していたとの記録があります。橋は関東大震災で大きな被害を受け、その後1953年に往時の木橋を模したコンクリートの橋へと生まれ変わりました。橋の欄干に飾られているこちらの擬宝珠(ぎぼし・画像リンク)は、元の橋のものを使用しているそうですよ。明治天皇がはじめて江戸城に入場する際には、呉服橋を通った後、こちらの和田倉門を通り、江戸城西の丸に入られました。 (「「和田倉門」と「和田倉橋」 – 最新情報 | 皇居外苑 | 一般財団法人国民公園」より)]
玉川上水樋管
「玉川上水留. [42] 玉川上水西丸下御厩掛并伝奏屋敷掛共外樋枡御普請一件 嘉永三戌年三月より十一月迄 分冊ノ一」(41/91・和田倉門周辺の玉川上水樋管が描かれています。44/91・外桜田門周辺と和田倉門周辺の玉川上水樋管が描かれています。)
「玉川上水留. [45] 玉川上水西丸下御厩掛并伝奏屋敷掛共外樋枡御普請一件 嘉永三戌年三月より十一月迄 分冊ノ四」(30/99・和田倉門周辺の玉川上水樋管が描かれています。)
資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸城見附図 2巻. [1]」(コマ番号9-12/47・和田倉御門)
(拡大図)
「東京都立図書館 – 江戸曲輪図(文政[1818-1830])」(絵図中央「御城」左上に「和田倉御門」と描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 御江戸大名小路絵図(嘉永2年・1849年)」(絵図中央右方向・堀右の橋が「和田倉御門」です。)
「国際日本文化研究センター – (内題)東京府武蔵国麹町区宝田町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治16年・1883年)」(地図上中央左に和田倉門と和田倉橋が描かれています。)
江戸時代の和田倉門・wikipedia-photo
和田倉櫓(『江戸図屏風』)・wikipedia-photo
カメラ位置は和田倉門橋で、和田倉門跡のストリートビューになっています。
和田倉門跡のストリートビューです。
和田倉 噴水公園のストリートビューです。
カメラ北北東方向に特別史跡江戸城跡の案内板があります。
特別史跡江戸城跡案内板(Google Map 画像)