岩槻藩大岡家上屋敷跡

マーカーは三井物産ビルです。

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP383・コマ番号235/553から岩槻藩屋敷の変遷について記載されています。P385・コマ番号236/553「上屋敷 龍ノ口」がこの地になります。大岡忠固は天保7(1836)年若年寄に就任し、大名小路に上屋敷地を拝領し、弘化2(1845)年、龍ノ口に屋敷替えとなります。嘉永5(1852)年若年寄辞任後、浅草諏訪町に屋敷替えとなります。

大岡忠固
[文政4年(1821年)4月に日光祭礼奉行、翌文政5年(1822年)に奏者番を歴任する。天保7(1836年)8月、米価昂騰で領内で百姓一揆が起きたが、これを何とか沈静させた。同年9月、このような中で若年寄に栄進し、天保15年(1844年)5月に江戸城本丸の普請奉行を務め、その功により3000石を加増される。
またアヘン戦争が敗戦した影響により、幕命により江戸湾の警備のために大砲や小銃を鋳造し、藩領であった上総安房に海上警備のために藩士を派した。これにより藩の財政が逼迫した。嘉永5年(1852年)、江戸に出向した公卿の接待役を勤め、江戸市中を案内し、その出来事を『船橋紀行』にまとめた。  (wikipedia・大岡忠固より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 分間江戸大絵図(出版年月日・宝暦13 [1763])」[コマ番号4/5・絵図四つ切左上、「トキハ橋上方向に「大岡兵庫頭上屋敷」(大岡忠光の子・大岡忠喜・奏者番1760-1772年)と描かれています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 分間江戸大絵図(出版年月日・明和9 [1772])」(コマ番号2/5・絵図四つ切左下、「御城」下方向「トウ三バシ」右に「大岡兵庫上屋敷」(大岡忠喜)と描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 分間江戸大絵図(出版年月日・寛政4 [1792])」(コマ番号2/5・絵図四つ切左下、「御城」下方向「トウ三バシ」右に「大岡丹ゴ上屋敷」(大岡忠烈)と描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 御江戸大名小路絵図(嘉永2年・1849年)」(絵図中央右方向・「御城」下方向に「大岡主膳正上屋敷」[大岡忠固・若年寄(1836年 – 1852年)]が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 浅草御蔵前辺図(嘉永6年・1853)」(絵図四つ切右下・「大岡兵庫頭(大岡忠恕)上屋敷」が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – [慶応改正御江戸大絵図](出版年月日・慶応3 [1867])」(コマ番号4/5・絵図中央左、「東本願寺」左下方向に「大岡兵ゴ」(大岡忠恕)上屋敷が描かれています。また、コマ番号3/5・絵図中央下方向、「薩州」上屋敷右に「大岡主膳」(大岡忠貫)上屋敷が描かれていますので、家督を相続による屋敷替があったと思われます。)

カメラ位置は和田倉濠北東角の日比谷通りで、江戸時代には北北東方向の道はありません、この道路両サイドが、大手前交差点手前まで岩槻藩大岡家上屋敷跡になります。