小倉藩小笠原家上屋敷跡

マーカーは大手町ビルです。

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小笠原忠眞
[小笠原 忠眞(おがさわら ただざね、慶長元年2月28日(1596年3月26日) – 寛文7年10月18日(1667年12月3日))は、江戸時代初期の大名。信濃国松本藩2代藩主、播磨国明石藩主、豊前国小倉藩初代藩主。
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で父・小笠原秀政と長兄・小笠原忠脩が戦死したため、総領家の家督を相続することとなり、信濃松本8万石を領した。後に播磨明石10万石を経て、豊前小倉15万石に移封された。前小倉藩主39万石の細川忠利は義兄弟である。島原の乱の際には長崎守備の任を果たした。剣豪・宮本武蔵が最も長く仕えたといわれる。大名茶人でもあり、同地の茶湯隆盛の基盤を築いた。上野焼の育成に尽力した外、茶人の古市了和を召し抱えて小笠原家茶道古流を興した。  (wikipedia・小笠原忠真より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 新板江戸大絵図(出版年月日・寛文10(1670)刊」[絵図四つ切右下・常盤橋上方向に「小笠原遠江」(小笠原忠雄)と記述されています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 御江戸大名小路絵図(嘉永2年・1849年)」(絵図右中央付近・神田橋御門の左方向に小笠原左京大夫(小笠原忠徴・小倉藩小笠原家上屋敷)が描かれています。)

[御大名小路辰之口辺図] / 高柴三雄 誌(嘉永2年・1849年)」・「bunko01_01854_p0001.jpg」 (絵図左上の中程に小笠原左京大夫が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – (内題)東京府武蔵国麹町区八重洲町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治16・1883年)」(地図四つ切右下・「農商務省」が小倉藩小笠原家上屋敷跡です。)

カメラ位置は大手町ビル北東交差点で、江戸時代にはこの交差点はありません、カメラ西方向両サイドが小倉藩小笠原家上屋敷跡です。

大手町二丁目([現]千代田区大手町一―二丁目)
[明治5年(1872)に成立。神田橋から南に延びる道の東側、道三(どうさん)町・銭瓶(ぜにかめ)町の北を占め、北から東にかけて外堀が巡る。南東角に常盤(ときわ)橋があり、同橋と神田橋で神田・日本橋方面へ通じる。古くは平川(ひらかわ)村の内で、江戸城築城に伴い武家地となり、西半は神田橋御門内(かんだばしごもんない)、東半は常盤橋御門内(ときわばしごもんない)と通称された。慶長江戸絵図によれば関東郡代伊奈忠次など徳川家譜代家臣のほか、外様大名藤堂高虎伊勢国津藩)・生駒一正讃岐国高松藩)の屋敷もみえる。明暦3年(1857)の大火で一帯が焼失した後、松平綱吉(のちの徳川綱吉)が神田橋御門内に上屋敷(神田御殿)を拝領した。元禄年中(1688~1704)に柳沢吉保甲斐国甲府藩)が神田御殿北側に上屋敷を拝領、同16年には常盤橋内までの外堀沿いの地を道敷・馬場とも囲い込み、正徳元年(1711)にはかつての神田御殿の西半を取込んで拡張するがまもなく替地となり、同3年に東部を越前国福井藩松平家、同五年には西部の北側を出羽国鶴岡藩酒井家、南側を越後国高田藩榊原家がそれぞれ上屋敷として拝領する。寛保元年(1741)榊原家に代わって豊前国小倉藩小笠原家がこの地に入るが、そのほかは変りなく幕末に至る(沿革図書など)。明治維新後福井藩松平邸は存続、津藩藤堂邸・薩摩鹿児島藩島津邸が新たに割られ、後には文部省教部省大蔵省紙幣寮用地・御雇外国人居留地となった(明治四年東京大絵図・同九年明治東京全図)。  (「大手町二丁目 | 仲介手数料最大無料の東京賃貸事情」より)]

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