岡崎藩本多家上屋敷跡

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP464・コマ番号276/553から岡崎藩屋敷の変遷について記載されています。P466・コマ番号277/553「上屋敷 日比谷門内」がこの地になります。この後大名小路に屋敷替となります。

岡崎藩本多家
[岡崎藩(おかざきはん)は、三河国(現在の愛知県東部)を領有した藩。藩庁は岡崎城に置かれた。
明和6年(1769年)11月18日、松平康福石見国浜田藩へ移封された。それと入れ替わる形で石見国浜田藩から本多忠粛が5万石で入る。こうして藩主家は定着した。本多平八郎家の統治時代は、藩財政難に悩まされた時代である。本多平八郎家は本多忠勝以来の名門であったが、相次ぐ移封と石高に較べての家臣の多さから財政は窮乏していた。
第2代藩主本多忠典中根忠容家老に登用し、さらに服部平兵衛も登用して財政再建を目指した。さらに江戸商人三谷喜三郎の協力を得て緊縮財政政策を実施し、財政改革は一時的な成功を収めた。また、矢作川沿いの農村で綿作が盛んに行なわれ、三河木綿が生産されるようになった。しかし天保期には飢饉が続いて一揆も起こり、財政窮乏が再びひどくなった。
第5代藩主本多忠民は再び財政改革を行ない、農村有力者と協力して再建に当たった。一方で忠民は京都所司代老中として幕末の幕政に参与し、公武合体に尽力した。しかしこのため、藩内では佐幕派と尊王派で争い、脱藩者も出る騒動が起こった。
第6代藩主本多忠直時代の明治2年(1869年)に版籍奉還が行なわれて岡崎知藩事に任じられ、明治4年(1871年)の廃藩置県で廃藩となった。  (wikipedia・岡崎藩より)]

[第5代藩主・本多忠民は老中(任期:1860年 – 1862年、1864年 – 1865年)に就任し、大名小路(老中屋敷跡(東京中央郵便局・JPタワー))に屋敷替えとなり、同時期、若年寄陸奥国泉藩本多忠徳が死去したため、忠徳の弟で養子の哲四郎(本多忠紀)が泉藩第第6代藩主として、若年寄屋敷・泉藩本多越中守(忠徳)上屋敷からの屋敷替えで入る。その後、本多忠紀(能登守)は小川町(「元治再刻飯田町駿河台小川町絵図(慶応元[1865]再刻)」)に屋敷替えとなります。
その後、この場所に老中となった、丹波亀山藩主松平信義が小川町(任期:1860年 – 1863年)から屋敷替えとなります。また、松平信義は老中辞職後、外桜田の福知山藩朽木家上屋敷跡に屋敷替えとなります。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 御江戸大名小路絵図(嘉永2年版・1849年)」(絵図四つ切左下・日比谷御門下に本多中務大輔(本多忠民)上屋敷が描かれています。)

東京都立図書館アーカイブ – 大名小路神田橋内内桜田之図(嘉永2[1849]/安政7[1860]改正刊)」(絵図四つ切左下・日比谷御門前は本多哲四郎(本多忠紀)上屋敷となり、絵図下中央大名小路下に本多美濃守上屋敷(本多忠民)が描かれています。)

東京都立図書館アーカイブ – 大名小路神田橋内内桜田之図(嘉永2[1849]/文久3[1863]改)」(絵図四つ切左下・日比谷御門前は松平豊前守(松平信義)上屋敷となり、絵図下中央大名小路下に本多美濃守上屋敷(本多忠民)が描かれています。)

カメラ東方向はザ・ペニンシュラ東京で道路両サイドが岡崎藩本多家上屋敷跡になります。
岡崎藩本多家上屋敷跡になります。