清水徳川家上屋敷(玉川上水樋管)跡

マーカーは清水徳川家上屋敷表門跡です。

関連リンク – 清水徳川家下屋敷跡(甘泉園)

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP895・コマ番号491/553から清水徳川家屋敷の変遷について記載されています。「上屋敷 清水門内」がこの地になります。

清水徳川家
[清水徳川家は江戸幕府9代将軍家重の次男重好を家祖とし、徳川将軍家に後嗣がないときは御三卿の他の2家とともに後嗣を出す資格を有した。ただし、清水家の出身で徳川将軍家を継いだ人物はいない(3代斉順の子家茂が14代将軍に就いているが、斉順が清水家を転出した後にもうけた子である)。家格は徳川御三家に次ぎ、石高は10万石。家名の由来となった屋敷地は、江戸城清水門内で田安邸の東、現在の北の丸公園日本武道館付近にあった。維新後は、元の下屋敷の一つであった甘泉園東京都新宿区西早稲田)に邸宅を構えていた。
重好は宝暦3年(1753年)に賄料3万俵を与えられ、1757年に御守(家老)2名が付けられ、1758年に清水門内に邸地を与えられた。1759年、元服して宮内卿を称し、賄料1万5千俵を加増されて屋形に移った。1762年、新規に賄料領知10万石を武蔵・上総・下総・甲斐・大和・和泉・播磨の7ヶ国に与えられた。
清水家は実子のなかった初代の重好以来、維新期に至るまで実子による相続が皆無であり、将軍世子ないし将軍の弟が養子入りして幼少で当主になった例が多い。加えて御三家に転出した当主が相次いだこともあって一時的な断絶を繰り返しており、御三卿の中で最も出入りが激しい家でもある。なお、寛政7年(1795年)の重好死去の際、嗣子なくして当主は空席となり、所領・家屋敷・家臣は一時的に幕府に収公されている。これは、同じ御三卿である他の2家(田安家・一橋家)が、空席の場合は明屋敷となるもそれら組織が存続されたことと比して異例であった。
清水家はその後、寛政10年(1798年)に将軍徳川家斉の幼い息子敦之助を当主として再興される。敦之助は清水屋敷へ移ることのないまま翌年に夭逝するが、子だくさんであった将軍家斉はその後も30年の間に斉順斉明斉彊と、次々に息子を清水家当主に据えた。このうち斉順と斉彊は清水家を出て紀州徳川家を継ぎ、斉明は夭逝した。
弘化3年(1846年)から20年に及ぶ明屋敷の後、江戸時代に最後に当主となったのは、最後の将軍徳川慶喜の弟で水戸徳川家出身の昭武である。慶喜は、パリ万国博覧会への使節の派遣に当たって昭武を名代に任じ、その便宜として慶応2年(1866年)に清水家を継がせた(形の上で水戸家から離され、同家への配慮の必要が薄れる)。昭武は当時実子のなかった慶喜から、自身の後継者候補とも目されていた。渡仏した昭武は、幕府代表としてヨーロッパ外交に努め、また万博閉幕後もフランスに滞在して勉学にも励んだが、その間に大政奉還明治政府の樹立、さらに長兄の水戸藩主徳川慶篤の死が続いた。昭武は明治元年(1868年)に帰国すると、水戸家の家督を継ぎ、そのため清水家はまたも当主不在となった。そうした事情もあって、御三卿の他の2家が維新後に一時とはいえ田安藩・一橋藩を立藩したのと異なり、「清水藩」は立藩していない。
明治3年(1870年)2月、昭武の甥(慶篤の次男)篤守が新たに清水家当主となって家禄2500石を支給され、華族に列した。この時、津山松平家松平斉民(斉明の弟・斉彊の兄)・康民親子が当主候補に挙がっており、また斉民は昭武の相続以前にも候補に挙がっていたが、いずれも当人が辞退している。篤守は相続の際に清水姓に改めたが、明治10年(1880年)には徳川姓に復している。明治17年(1884年)の華族令伯爵を授けられたが、篤守は負債を巡る訴訟事件により「華族の礼遇に耐えられず」として、明治32年(1899年)に爵位を返上した。明治35年(1902年)6月15日付の『東京朝日新聞』により、清水徳川家の関係者による徳川慶喜の息子を相続人とする再受爵運動を確認できる。結局、日本最初の航空パイロットとして知られる篤守の嫡子好敏が日本陸軍航空兵分野確立の功労により、昭和3年(1928年)にあらためて男爵を授けられた。後に好敏は陸軍中将に昇進している。  (wikipedia・清水徳川家より)]

玉川上水樋管
玉川上水留. [61] 玉川上水代官町土手上清水附元枡其外御修復一件 安政三辰年五月 分冊ノ一」(58/94・清水徳川家までの玉川上水樋管が描かれています。)
玉川上水留. [62] 玉川上水代官町土手上清水附元枡其外御修復一件 安政三辰年五月 分冊ノ二」(61~64・清水徳川家までの玉川上水樋管が描かれています。)
玉川上水留. [96] 玉川上水代官町土手上通清水御屋敷掛樋枡御普請清水御屋敷内北之方奥向御泉水掛樋枡伏下ヶ一件 文久三亥年十二月より元治元子年閏八月 分冊ノ一」(25,26,71,72/101・清水徳川家までの玉川上水樋管が描かれています。)
玉川上水留. [91] 玉川上水清水御屋敷内樋枡御修復一件」(48~50/119・清水家敷地内の神田上水樋管が描かれています。)
玉川上水留. [97] 玉川上水代官町土手上通清水御屋敷掛樋枡御普請清水御屋敷内北之方奥向御泉水掛樋枡伏下ヶ一件 文久三亥年十二月より元治元子年閏八月 分冊ノ二」(26~28,71~76/104・清水家敷地内の神田上水樋管が描かれています。)

資料リンク
東京都立図書館 – 江戸曲輪図(文政[1818-1830])」(絵図中央「御城」下に「徳川右エ門督殿(田安徳川家)」「清水」と描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 一」[コマ番号127/130・「安政3(1856)年之形」、128/130・「当時之方(文久元年・1861年)」に「田安殿」「清水付屋敷」と描かれています。]

カメラ付近に清水徳川家上屋敷表門があったようです。