マーカーは田安徳川家上屋敷表門跡です。
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「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP566・コマ番号327/553から田安徳川家屋敷の変遷について記載されています。「上屋敷 田安門内」がこの地になります。
田安徳川家
[江戸幕府第8代将軍吉宗の次男宗武を家祖とし、徳川将軍家に後嗣がないときは御三卿の他の2家とともに後嗣を出す資格を有した。家格は御三家に次ぎ、石高は10万石。家名の由来となった屋敷、田安邸は江戸城田安門内で清水邸の西、現在の北の丸公園・日本武道館付近にあり、同地が田安明神(現・築土神社)の旧地であったことからこの名が付けられた。
享保14年(1729年)、宗武は元服して右衛門督と称し、御守(家老)両名を付けられて蔵米で賄料3万俵を与えられた。翌15年(1730年)には田安門内に邸地を与えられ、翌16年(1731年)に屋形へ移った。延享3年(1746年)には蔵米支給が領地に切り替えられ、賄料領知10万石を武蔵・上野・甲斐・和泉・摂津・播磨の6ヶ国に与えられた。
宗武は俊英で知られ、国学を学び和歌をよくする好学の家系であったが、嫡子の2代治察が病弱で早世した。このとき、家に残っていた弟の賢丸(松平定信)は既に白河藩の久松松平家への養子行きが決められており、3代目を相続することが認められなかった。そのため、宗武の血筋は以後の田安家には伝えられなかったが、定信を通じて久松松平家に伝わった。田安家は十数年にわたり明屋敷(当主不在)となった後、一橋家出身の斉匡が相続し、以後は一橋宗尹の血筋で続いた。
江戸時代を通じて田安家から将軍を出すことはなかったが、15代将軍慶喜の謹慎の後、明治元年(1868年)閏4月に7代当主亀之助が徳川宗家を相続した(16代徳川家達)。翌5月に父慶頼が再承して、同3年3月に家禄3148石を支給された。明治維新後は華族に列し、伯爵を授けられた。 (wikipedia・田安徳川家より)]
玉川上水樋管
「玉川上水留. [96] 玉川上水代官町土手上通清水御屋敷掛樋枡御普請清水御屋敷内北之方奥向御泉水掛樋枡伏下ヶ一件 文久三亥年十二月より元治元子年閏八月 分冊ノ一」(72,81,82/101・田安徳川家表門西方向から流入する玉川上水樋管が描かれています。)
「玉川上水留. [61] 玉川上水代官町土手上清水附元枡其外御修復一件 安政三辰年五月 分冊ノ一」(39~43/94・田安徳川家表門西方向から流入と邸内の玉川上水樋管が描かれています。)
資料リンク
「東京都立図書館 – 江戸曲輪図(文政[1818-1830])」(絵図中央「御城」下に「徳川右エ門督殿(田安徳川家)」「清水」と描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 一」[コマ番号127/130・「安政3(1856)年之形」、128/130・「当時之方(文久元年・1861年)」に「田安殿」「清水付屋敷」と描かれています。]
カメラ西方向に田安徳川家上屋敷表門があったようです。