老中屋敷・上田藩松平伊賀(忠固)上屋敷跡

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP685・コマ番号386/553から上田藩屋敷の変遷について記載されています。P688・コマ番号388/553「上屋敷 西丸下」がこの地になります。松平忠固は老中退任後小川町に屋敷地を拝領し、その後再度老中に就任し、西丸下に上屋敷を拝領します。その後再任老中を退任し浅草瓦町に上屋敷を拝領します。

松平忠固
[松平 忠固(まつだいら ただかた)は、幕末譜代大名老中信濃国上田藩6代藩主。伊賀守系藤井松平家8代当主。嘉永7年(1854年)の日米和親条約と、安政5年(1857年)の日米修好通商条約という2度の条約の調印時にいずれも老中を務めた。徳川斉昭と対立しながら、終始一貫して開国を主張し、幕府の開国論を牽引した支柱的存在であった。
最初の老中就任時は松平 忠優(まつだいら ただます)という名前で、2度目の老中就任時に松平忠固と改名しているが、同一人物である。
最初の老中就任
文化9年(1812年)7月11日、播磨国姫路藩主・酒井雅楽頭忠実の次男として江戸で誕生。文政12年(1829年)9月、同じ譜代大名で老中歴任者の多い上田藩(藤井松平家)5代藩主・松平忠学の養子となり、文政13年(1830年)4月20日に忠学が隠居したのを受けて家督を継ぐ。藩政では天保の飢饉の悲惨さから上田の冷涼な気候での米作依存の危うさを痛感し、桑栽培による生糸産業に力を注いで後年の発展の基礎を築いた。寺社奉行在任の際に水野忠邦を批判してお役御免となるが水野の失脚に伴い再任、大坂城代を経て嘉永元年(1848年)、老中に抜擢される。
嘉永6年(1853年)6月、浦賀へ来航して国書を交付してきたアメリカ東インド艦隊提督マシュー・ペリーからの開国要求に際し、老中首座・阿部正弘は諸大名や朝廷からも意見を求め、また前水戸藩主・徳川斉昭を海防参与に任じたものの、忠優はこれらに最も反対した。外交問題も含め朝廷から諸事一任されている幕府がわざわざ朝廷諸大名に意見を求めるのは、幕府の当事者能力の喪失を内外に印象付けるだけで愚策であるというのである。
事実、幕末の政局は朝廷公卿や外様大藩からの幕政への容喙によって混乱を招いており、忠優の危惧も頷けるところである。更に、譜代大名重鎮の一つである酒井雅楽頭家の出身者らしく、元々御三家といえども幕政に参与する資格など無く、ましてや狷介な性格の斉昭ではいたずらに幕政に波風(暴風)を立てるだけだとして警戒し、斉昭の海防参与就任にも反対した。
また、攘夷論を唱える徳川斉昭の主張は一見威勢はいいが、当時の幕府がアメリカと一戦交えても勝利できるはずはなく、下手をすると国土の一部を割譲されるだけである、それならばいっそ国書を受け取り、早めに開国すべきであるというのが、幕府内で主流派であり、自身も属していた穏便・開国派の考えであった。そこで、さらに積極的な交易論を唱える忠優は、交易通信の承認に傾けるほど幕閣の大勢を主導していた。
しかし海防水戸学の思想に固まる斉昭と、積極開国派の忠優では見解の一致などあろうはずがなく、両者の対立は激しさを増す。
交易を絶対に認めない斉昭から、強い抗議の意味合いで海防参与の辞職を出願されたため、老中首座の阿部正弘は事態の収拾を図ろうと斉昭に譲歩し、通商通信を許さないという決定を下してしまう。さらに安政2年(1855年)6月30日、忠優と彼に歩調を合わせる松平乗全の両名の老中免職まで要求する斉昭に対し、やむなく屈した正弘によって、8月4日に乗全と共に忠優は老中職を解かれて、帝鑑間詰に戻された。
2度目の就任
両者罷免後に、かえって幕府内での孤立を深めた正弘は、安政2年(1855年)10月には開国派の巨頭・堀田正睦を老中に招聘した。しかも正睦へは、形式的に首座の地位まで譲ることで斉昭のような外部からの抗議の矛先を躱しつつ実権を確保し、幕政に専念できる体制造りに取り組んだ。ただ、その甲斐も無く安政4年(1857年)6月に在任のまま正弘が死去。後事を託された堀田正睦は日米間の条約交渉を共に推進する同志として、開国派の忠優を復帰させる決断をした。忠固と改名した忠優は、勝手掛も兼ねる次席格の老中として再び敏腕を揮う機会を得た。
再任後の忠固は日米修好通商条約締結につき、許不要論を唱え、一刻も早い締結を主張し、要勅許を唱える外野の斉昭や松平慶永と対立した。また、慶永や尾張藩主・徳川慶勝将軍継嗣問題一橋慶喜を推して雄藩連合でこの難局に対処すべしと主張したのに対して、忠固は紀州藩主・徳川慶福を将軍とし、従前どおり譜代大名中心で幕政を進めるべしと考えていた。
日米修好条約の勅許を得るために上洛中の正睦を、忠固は見限って近江国彦根藩主・井伊直弼大老にする工作を行った。一説によると、一橋派に寝返った正睦を直弼に逐わせ、直弼を傀儡にして自らが老中首座として佐幕路線を突っ走る目論見があったといわれる。しかし、直弼は大老として既に13代将軍・徳川家定から全幅の信任を受けており、忠固などいつでも逐える体制を整えていたのは彼によって予想外のことであった。
なお、忠固は南紀派であったという解釈が一般的であるが、実際にはどちらにも与せず中立であったという説もある。南紀派の井伊直弼も一橋派の松平慶永もそれぞれ将軍継嗣問題に絡んで忠固に黄金を贈ろうとしているが、忠固は受け取らなかった。後世に忠固が評価されていないのは、その中立的スタンスが災いして、一橋派からも南紀派からも悪く言われたためではないかとも思われる。
日米交渉における忠固のスタンスは一貫している。当時、破竹の勢いでアジア諸国を植民地化しつつあったイギリスの艦隊が日本に襲来する前に、相対的に穏当な交渉相手であるアメリカのタウンゼント・ハリスとの間で、少しでも日本に有利な内容の最恵国条約を結んでしまおうというものであり、そのためには朝廷の勅許など待ってはいられなかった。朝廷の勅許にこだわっていたのは正睦と直弼であり、強い意志で条約の調印を決断したのは忠固であった。
直弼が松平慶永に語ったところによれば、調印当日の6月19日の閣議の席上、直弼は「天意(孝明天皇の意志)をこそ専らに御評定あり度候へ」と、勅許を優先させることを訴えたが、忠固が「長袖(公卿)の望ミニ適ふやうにと議するとも果てしなき事なれハ、此表限りに取り計らハすしては、覇府の権もなく、時機を失ひ、天下の事を誤る」と即時条約調印を主張、結局そのまま調印に至った。条約調印の最終段階において直弼は無力だったのであり、忠固こそが閣議をリードしていた様子が伺える。直弼は完全に孤立したため、翌日、慶永のもとを訪れ「貴兄初の援助を依頼するの他なし。伊賀(忠固)抔は小身者の分際として此頃は権威を誇り、傍若無人の有様、此度の事抔も我意に任せて京都を押付んと致す條、言語道断なり」と怒りをぶつけ、忠固と正睦を失脚させる事への協力を依頼した。忠固を失脚させるため、南紀派の直弼が一橋派と一時的に手を組んだのである。
条約の調印から4日後の6月23日、忠固は正睦と共に老中を免職、蟄居を命じられた。安政の大獄の始まりである。勅許を得ず条約を締結し、かつ朝廷に対して条約締結を事後報告で済ませたのは不遜の極みとして責任を取らされたともいわれ、あるいは閣内で直弼と権力を争うに至り、機先を制した直弼が異分子を排除したともいわれる。
なお日米修好通商条約の調印に先立ち、安政4年(1857年)忠固は産物会所を国元と江戸に設置し、上田藩の特産品であった生糸を江戸へ出荷する体制を作り上げ、生糸輸出を準備させていた。横浜開港と同時に生糸の輸出を始めたのも上田藩であった。その後、明治から昭和初期まで生糸が日本最大の輸出品として日本経済を支え続けたことを考えると、開国を見据えた忠固の先見性は確かなものであったことが分かる。
安政6年(1859年)9月14日に急死、享年48。表向きには病死と報告されているが暗殺説もあり、跡継ぎが決まっていなかったため、家名断絶を恐れた藩により暗殺は極秘にされたという説である。急遽跡を三男の忠礼が継いだ。
遺訓は「交易は世界の通道なり。皇国の前途は交易によりて隆盛を図るべきなり。世論囂々たるも開くべきの通道必ず開けん。汝らはその方法を講ずべし」であった。息子の忠礼と忠厚はこの遺訓に従い、廃藩置県後に米国に留学した。忠厚は米国の土木工学者として画期的な測量法を開発し、全米で有名になった。  (wikipedia・松平忠固より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 御江戸大名小路絵図(嘉永2年・1849年)」(絵図四つ切左上に松平伊賀守上屋敷が描かれています。この屋敷地は後に西の丸下歩兵屯所となります。)

カメラ南南東方向が老中屋敷・上田藩松平伊賀(忠固)上屋敷跡になります。