老中屋敷・長岡藩牧野備前守(忠雅)家上屋敷跡

マーカーは若年寄屋敷・松平玄蕃頭(小幡藩)上屋敷跡です。

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP647・コマ番号367/553から長岡藩屋敷の変遷について記載されています。P649・コマ番号368/553「上屋敷 同所(西丸下)」がこの地になります。牧野忠精は老中辞任後、小川町に上屋敷地を拝領し、この屋敷で死去します。跡を継いだ忠恭は赤坂今井谷、外櫻田へと屋敷替えになり、その後老中へ就任し龍ノ口南角に上屋敷を拝領し、辞任後は呉服橋内に屋敷替えとなります。

牧野備前守(忠雅)
[天保2年(1831年)に牧野忠精が隠居すると家督を相続する。奏者番寺社奉行京都所司代を経て、天保14年(1843年)老中となり海防掛担当となる。閣内の席次は阿部正弘に次ぎ、終始阿部に歩調を合わせていたが、阿部死去後、堀田正睦が名実ともに実権を握ると、安政4年(1857年)老中を辞任した。翌年に死亡し、家督は養子の忠恭が継いだ。  (wikipedia・牧野忠雅より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 御江戸大名小路絵図(嘉永2年・1849年)」(絵図中央左方向・馬場先門御門上方向左に牧野備前守(忠雅)上屋敷が描かれています。)

東京都立図書館アーカイブ – 大名小路神田橋内内桜田之図(嘉永2[1849]/安政7[1860]改正刊)」(牧野備前守(忠雅)の跡を継いだ、忠恭は老中となり阿部播磨守上屋敷地に上屋敷地を拝領し、その後呉服橋御門内の館林藩秋元家上屋敷地に移転します。絵図中央右下・大名小路上に牧野備前守(牧野忠恭)上屋敷が描かれています。)

東京都立図書館アーカイブ – 御曲輪内大名小路絵図(嘉永2[1849]/慶応元[1865]改正再版)」(絵図下右方向・呉服橋御門内に牧野備前守(牧野忠恭)家上屋敷が描かれています。)

カメラ位置は若年寄屋敷・松平玄蕃頭(小幡藩)上屋敷跡の中心部付近になります。