マーカーは若年寄屋敷・高富藩本庄安芸守(道貫)家上屋敷跡です。
高富藩本庄安芸守(道貫)家上屋敷関連リンク – 八戸藩南部家・出石藩仙石家・高富藩本庄家上屋敷跡(アークヒルズ仙石山森タワー)、高富藩本庄家下屋敷跡
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP599・コマ番号343/553から高富藩屋敷の変遷について記載されています。「上屋敷 西丸下」がこの地になります。本庄道貫は若年寄就任中に死去し、跡を継いだ本庄道美は万延元(1860)年に麻布市兵衛町に屋敷替えとなります。
本庄道貫
[先代・本庄道昌の養子となり、文政2年(1819年)に養父の隠居により家督を相続する。農民には植林を命じ、家臣には厳しい倹約を命じた。そのほか、目安箱の設置、年貢の増徴、藩札の発行などの藩政改革を実施したが、領民の抵抗に遭った。幕政においては伏見奉行や奏者番、若年寄を歴任した。1858年(安政5年)、死去。跡を長男の道美が継いだ。
●文政10年(1827年)10月12日、伏見奉行に任ぜられる。
●天保4年(1833年)6月8日、奏者番となる。
●天保12年(1841年)9月14日、若年寄となる。
●天保14年(1843年)閏9月11日、安芸守と改める。
●安政5年(1858年)8月23日、病気につき、御役御免の願いを提出。現職のまま26日に死去。 (wikipedia・本庄道貫より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 御江戸大名小路絵図(嘉永2年・1849年)」(絵図四つ切左上・桜田御門右下に本庄安芸守(本庄道貫)上屋敷が描かれています。)
カメラ位置は桜田門前広場で、カメラ東北東方向が若年寄屋敷・高富藩本庄安芸守(道貫)家上屋敷跡になります。