一石橋

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一石橋
[江戸時代初期の「武州豊島郡江戸庄図」に既に元となる木橋の記載が見られる。北橋詰の本両替町に江戸幕府金座御用達後藤庄三郎、南橋詰の呉服町に御用呉服商の後藤縫殿助の屋敷があり、当時の橋が破損した際に、これらの両後藤の援助により再建された。そのため後藤の読みから「五斗」、「五斗+五斗で一石」ともじった洒落から一石橋と名付けられたと伝わる。またそのまま「後藤橋」とも呼ばれていた。江戸期を通して神田地区日本橋地区を結ぶ重要な橋であった。一石橋はその名を「八つ見橋」や「八橋」とも呼ばれた。橋上に立つと自身も含めて八つの橋(外濠の常盤橋呉服橋鍛冶橋日本橋川の一石橋・日本橋江戸橋、道三堀の銭瓶橋道三橋)が見渡せたことが由来で江戸の名所のひとつであった。歌川広重名所江戸百景において「八ツ見のはし」として描いている。
木橋としては明治6年(1873年)の架け替えが最後で、当時の記録には橋長十四間、幅員三間とある。大正11年(1922年)6月に東京市道路局によって鉄筋コンクリートRC花崗岩張りのアーチ橋として改架された。その当時の橋の現在は、南詰下流側の親柱1本を中央区が区民有形文化財建造物に指定し、保存されている。
東京都中央区から。(2008年4月)・ファイル:Ichikoku_bashi.jpg、八ツ見のはし(名所江戸百景より)・ファイル:100_views_edo_062.jpg
満よひ子の志るべ
江戸期~明治期にかけて付近はかなりの繁華街であり、迷い子が多く出た。当時は迷い子は地元が責任を持って保護するという決まりがあり、地元西河岸町の人々によって安政4年(1857年)2月に「満よひ子の志るべ(迷い子のしるべ)」が南詰に建てられた。しるべの右側には「志(知)らする方」、左側には「たづぬる方」と彫られて、上部に窪みがある。使用法は左側の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼り、それを見た通行人の中で心当たりがある場合は、その旨を書いた紙を窪みに貼って迷子、尋ね人を知らせたという。このほか浅草寺境内や湯島天神境内、両国橋橋詰など往来の多い場所に数多く設置されたようだが、現存するものは一石橋のものだけである。
昭和17年9月に東京都指定旧跡に指定され、昭和58年5月6日に種別変更され東京都指定有形文化財(歴史資料)に指定されている。  (wikipedia・一石橋より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 築地八町堀日本橋南絵図」、「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 日本橋北神田浜町絵図

嘉永2年 尾張屋清七版の切絵図に於ける、一石橋・呉服橋御門・銭瓶橋・常盤橋御門の位置関係図。

国立国会図書館デジタルライブラリー – 飯田町堀留より数寄屋橋御門外迄御堀浚道造出来形絵図」(5/8図左に一石橋が描かれています。)

武州豊嶋郡江戸〔庄〕図 – 国立国会図書館デジタルコレクション(1624-1643・寛永年間」[絵図中央下に十本の船入堀が描かれ、中央の舟入が紅葉川で、紅葉川が接続する川が楓川です。楓川の左の接続が日本橋川で日本橋が描かれ、その上に一石橋が描かれています。]

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「八見橋」(1-33)、「一石橋解説-1・左ページ左から4行目より」(1-34)、「一石橋解説-1・右ページ3行目まで」(1-37)
八見橋(拡大図)

[図会左ページ中央下に一石橋、その上に呉服橋、そこの左上に鍛冶橋、右ページ下に常盤橋、その上に銭瓶橋、そこの右方向端に道三橋が描かれています。また、描かれていませんが日本橋川・一石橋左側の日本橋、江戸橋があり、一石橋から一石橋を含め八つ橋が見えることから、一石橋は「八つ見橋」と呼ばれていました。]

東都歳事記. 巻之1-4,附録 / 斎藤月岑 編纂 ; 長谷川雪旦 図画 ; 松斎雪堤 補画」・「御旅所」(3-24)、「武城七夕(常盤橋一石橋呉服橋)」(4-3)
武城七夕(常盤橋一石橋呉服橋)(拡大図)

御旅所(拡大図)

[日本橋から一石橋までの日本橋川右岸地域が西川岸町という地名であった、絵の幟に「日本橋西川岸」が描かれている。]

狂歌江都名所図会 – 八ッ見橋(拡大図)

絵本江戸土産 – 八ツ見橋の景(拡大図)

名所江戸百景[歌川(安藤)広重](八ツ見のはし (現在の呉服橋交差点付近)・wikipedia-photo)

一石橋迷子しらせ石標 – Google Map 画像リンク

カメラ北北西方向に、大正11年(1922)建造の親柱が、その脇に一石橋迷子しらせ石標、説明板が設置してあります。

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