マーカーは北新堀御船手組屋敷です。
北新堀御船手組屋敷
[越後屋による豪勢な振舞いとともに成田山の出開帳情報も江戸中に広まっていったことでしょう。
越後屋を出た成田山一行は、日本橋川を右手に見ながら隅田川の方角に向かいます。日本橋川は隅田川とともに、江戸の物流を支える主要水路でした。
日本橋川に架かる日本橋は五街道の起点であると同時に、その袂には魚市場を抱えていました。日本橋の魚市場と言えば、一日に千両もの取引があったと称されるほどの活気をみせた場所でした。
日本橋川に沿って隅田川に近づいていくと、御船手組の屋敷が現れます。町名でいうと、北新堀町です。現在の中央区日本橋箱崎町に当たります。
御船手組とは幕府が所有する船を管理する部門で、そのトップである御船手頭は向井将監という旗本でした。その下に船の運航に携わる大勢の同心や水主たちが付属しました。同心と水主合わせて約400人を越えていたそうです。彼らの居住する屋敷がこの北新堀町にあったわけです。
幕府は大小合わせて約60隻の船を所有していました。最大の船は将軍が乗船する御座船で、江戸湾を遊覧しながら「浜御庭」まで出掛けるのが楽しみだったと伝えられます。現在の浜離宮恩賜庭園のことです。
不動明王を納める厨子を載せた輿は、この北新堀町の御船手組屋敷にも入っていきます。船手組の同心や水主たちにも厚く信仰されていたことがわかりますが、立ち寄ったのはそれだけが理由ではありません。
北新堀町の御船手組屋敷を出ると、いよいよ成田山一行は開帳場の永代寺が鎮座する深川に向かうことになっていました。深川に向かうには隅田川を渡る必要がありましたが、その際、立ち寄った御船手組の面々の世話になるのです。 (「成田山開基1080年祭記念大開帳」より)]
神田上水樋管
「神田上水留. [20] 神田上水北新堀御船手組屋舗掛樋枡御普請一件 嘉永五子年正月 御普請方」(16,42/73・北新堀町から北新堀御船手組屋敷分岐の神田上水樋管が描かれています。15/73・北新堀御船手組屋敷内の神田上水樋管が描かれています。)
北新堀御船手組屋敷資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクション – 呉服橋御門外ヨリ鍛冶橋御門外日本橋京橋川筋限八丁堀箱崎霊岸島辺一円絵図」(絵図左下・新堀川下に北新堀川が描かれ、その下方向に御船手組屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 築地八町堀日本橋南絵図」
[図会は「隅田川両岸一覧図絵」の切り取りで、初期設定画面上に乙女橋(豊海橋)が描かれ、その右に御船手番所、絵地図をスクロールすると永代橋、御船手御舟蔵が描かれています。]
カメラ位置は豊海橋北詰めで、カメラ北方向に御船手組屋敷があったようです。
北新堀町
[北新堀町は、新堀川北岸に出来た、寛永図にものっている古い町です。しかし、大商店は案外少なく、幕末嘉永の「諸問屋名前帳」によってみても、下り塩仲買の加田屋彦兵衛、徳島屋市郎兵衛、岡本屋又次郎の3店、新堀組荒物問屋の吉野屋伊兵衛などが眼につく程度です。(中央区30年史による)
町として主たる建物は永代橋詰の船見番所と御船蔵で、御船蔵は北新堀から箱崎3丁目にかけて設けられていて、明暦3年(1657)のことといいます。船見番所は北新堀川南端新堀河岸に明暦大火後の寛文5年(1665)に新設され、隅田川と新堀川を往来する船の見張所として大きな役割を果していたといいます。船見番所を通る際は、船の乗客は冠り物をとり、音曲などを止め、会釈をしながら通過するのが慣例になっていたという話です。
この北新堀町の南端には早くから深川へ渡る渡船があり、「深川の大渡し」と呼ばれて、人々に親しまれていたのですが、元禄11年(1698)永代橋が新に架橋されると、北新堀町の河岸通りは、急速に発展して賑やかになってきました。この新しい永代橋は赤穂浪士達が渡って、中央区の明石町にあった、かつての浅野家の邸の前を通って金杉から泉岳寺へと行ったことで有名です。
永代橋は、深川永代寺の富士講や富岡八幡宮の祭礼には、神輿や山車の渡御などで大変な賑わいを呈したのでしたが、明治になって明治27年市区改正の公布で、橋の位置を変じることになり、明治30年11月鉄橋になって出現すると、北新堀の河岸通りは全く淋しくなり、火の消えたようになってしまったと今も語り伝えられています。橋が2百米下流の方に移っただけで、街の賑わいが全く変ってしまったなど恐ろしい変化というべきでしょう。
この町に関して特記すべきは、明治初年の開拓使物産売捌所のことです。この建物はジョサイア・コンドル設計で、明治13年6月竣工、2階建煉瓦造りのベネチアン・ゴシック風とよばれた洒落た建物でしたが、開拓使がこの建物竣工後間もなく、15年2月には廃止されてしまった為、新しく日本金融機関の総元締として設立された日本銀行が使用することになり、16年4月26日開業式が行なわれ、今の場所に日本銀行が移転する明治29年4月まで、ここに日本銀行のあった事は是非知っておいていただきたい事です。
その後この建物は日本銀行の集会所として使用され、後には倉庫といった形で使用されたりしましたが、大正の大震災で廃虚となってしまったといいます。現在「日本銀行発祥の地」という記念碑が建っています。 (「日本橋箱崎町 | 日本橋“町”物語 | 東京都印刷工業組合 日本橋支部」より)]