古河藩土井家中屋敷跡

マーカーは中央区立箱崎公園です。

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[土井大炊頭
下総古河八万石の太守。中屋敷であるが『江戸藩邸沿革』に記録を欠き、邸地の沿革は定かではない。古河藩中屋敷になる前は、福知山藩朽木家の中屋敷であった。『江戸藩邸沿革』福知山藩の条下に、
一、中屋敷 北新地
拝領年月不詳。切坪相対替宝永三(1706)年十一月廿三日、残地相対替享和三(1803)年四月十一日。残地坪数四千五百廿八坪。
 承応以降各地図ニ載ス。
府内沿革図書、朽木伊予守(朽木稙元)屋敷、宝永三戌年切坪相対替ニテ北之方戸田采女正(戸田氏定)屋敷ニ成、残地所、享和三亥年相対替ニテ土井大炊頭(土井利厚)屋敷ニ成。 (市街篇四九 – 七四三頁)
 これによって、この地が土井家の邸地になったのは享和三年(一八〇三)だったことが知れる。箱崎の地「朽木島」と称したと伝えるのも、朽木家が久しくこの地にあったことにほかならない。  (「切絵図考証九 安藤菊二(PDFファイル:943.37 KB)」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内沿革図書. 第二篇上」(コマ番号53/182「延宝年中(1673年-1681年)之形」の絵図中央上に朽木伊豫守(朽木稙昌)と記述されています。コマ番号54/182「天和年中(1681年-1684年)之形」、コマ番号55/182「元禄年中(1688年-1704年)之形」の中央に朽木伊豫守(朽木稙昌)と記述されています。コマ番号56/183「享保年中(1716年-1736年)之形」の中央に朽木民部少輔(朽木稙元)、戸田采女正(戸田氏定)と記述されています。コマ番号57/183「宝暦十(1760)年之形」、コマ番号58/183「天明五(1785)年之形」で土井大炊頭(朽木伊豫守)、戸田采女正と記述されています。コマ番号59/183「当時(文久元年・1861年)之形」で戸田采女正屋敷地が田安殿屋敷地に取り込まれています。)

土井利勝
[土井 利勝(どい としかつ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将、譜代大名江戸幕府老中大老下総国小見川藩主、同佐倉藩主、同古河藩初代藩主。土井家宗家初代。徳川秀忠政権における老中として、絶大な権勢を誇った。
出生
元亀4年(1573年)3月18日、水野信元の三男(末子)として生まれる。兄に早世した十郎三郎、甚左衛門(茂尾平兵衛)がおり、徳川家康の母方の従弟にあたる。
土井氏の系図には徳川家家臣・土井利昌(小左衛門正利)の実子と記載されている。この場合、遠江国浜松城(現在の静岡県浜松市)で生まれで、母は葉佐田則勝の娘という説もある。また、家康の落胤という説もある(後述)。
天正3年(1575年)、父・信元が佐久間信盛の讒言で、家康やその同盟者で信盛の主君である織田信長と敵対していた武田勝頼旗下武将秋山信友と内通したという嫌疑(秋山が占領していた岩村城への水野領からの兵糧売却)をかけられ、三河国大樹寺愛知県岡崎市鴨田町字広元)において信長の命を受けた家康配下の平岩親吉によって殺害されると、家康の計らいで土井利昌の養子になった。利昌には実子で長男の元政(甚三郎)がいたが、それを差し置いて利勝が家督を継いでいる。
江戸幕府開府まで
天正7年(1579年)4月に徳川秀忠が生まれると、7歳にして安藤重信青山忠成と共に秀忠の傅役を命じられた。役料は200俵であった。豊臣政権下での家康の関東転封後の天正19年(1591年)、相模国に領地1,000石を得る。慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いの際には、利勝は秀忠に従って別働隊となり、江戸から中山道を通って西へ向かった。しかし信濃上田城真田昌幸を攻めあぐみ、関ヶ原の決戦にはついに間に合わなかったものの、戦後に500石を加増されている。
慶長6年(1601年)に徒頭に任じられ、慶長7年(1602年)12月28日に1万石を領して諸侯に列し、下総国小見川藩主となった。
家康・秀忠時代
慶長9年(1604年)、李氏朝鮮より朝鮮通信使正使・呂祐吉以下の使節が来日するとその事務を総括した。慶長10年(1605年)4月、秀忠が上洛して後陽成天皇より征夷大将軍に任ぜられると、随行していた利勝も4月29日に従五位下・大炊頭に叙位・任官し、以後は秀忠の側近としての地位を固めていった。
慶長13年(1608年)には浄土宗日蓮宗の論争(慶長宗論)に裁断を下して政治的手腕を見せ、慶長15年(1610年)1月、下総国佐倉3万2,000石に加増移封となった。10月に本多忠勝が死去すると、家康の命令により12月1日に秀忠付の老中に任じられた。慶長17年(1612年)に4万5,000石に加増される。
慶長20年(1615年)、大坂の陣が起こると利勝は秀忠付として従軍し、豊臣氏滅亡後、秀忠より猿毛柄の槍を贈られ、さらに6万2,500石に所領を加増された。夏には青山忠俊酒井忠世と共に徳川家光の傅役を命じられた。元和2年(1616年)、秀忠の名で一国一城令武家諸法度(13条)を制定した。これにより戦国時代は完全に終わりを告げ、諸大名は幕藩体制に組み込まれることとなった。4月に家康が死去すると、久能山に葬られる際には利勝がその一切の事務を総括した。
元和4年(1618年)、黒坂藩主の関一政改易されたため、一政の弟・関盛吉食客とした。
元和8年(1622年)、家康の側近として辣腕を振るった本多正純が失脚した。背景に利勝の策動を指摘する声もある。正純の失脚によって、利勝は「名実ともに幕府の最高権力者」となった。
家光時代
元和9年(1623年)、秀忠は将軍職を家光に譲った。将軍交代の際には側近も変わるのが通常であるが、利勝はこの後も青山忠俊、酒井忠世と共に家光を助け、幕政に辣腕を振るっていく。寛永2年(1625年)に14万2,000石に加増された。
寛永10年(1633年)4月7日、下総国古河16万2000石に加増移封される。寛永12年(1635年)、武家諸法度に参勤交代を組み込むなど19条に増やして大改訂し、幕府の支配体制を確定した。政権が家光に移ってほどなく、徳川忠長加藤忠広が改易された。家光と内密に謀を巡らせた利勝がわざと家光との不仲を装い、謀反の旨をつづった文を諸大名に回したところ、他の諸大名はこれを即座に家光に提出したが、忠広と忠長だけは提出しなかったことが改易の契機になったという話がある。
この事件後に利勝は徐々に政治の実権から遠ざかったとしている。
寛永13年(1636年)、それまでの永楽通宝など明銭に頼っていた通貨制度を一新し、寛永通宝の鋳造を柱とする新通貨制度を制定した。寛永通宝は明治時代の中頃まで流通していたという。
寛永14年(1637年)頃から中風を病むようになり、病気を理由に老中辞任を申し出るが、家光より慰留されて撤回する。寛永15年(1638年)11月7日、体調を気遣った家光の計らいにより、実務を離れて大老となり、事実上の名誉職のみの立場となった。
寛永21年(1644年)6月に病床に臥し、将軍代参の見舞いを受けるなどしたが、7月10日に死去した。享年72。跡を長男の土井利隆が継いだ。  (wikipedia・土井利勝より)]

東京都立図書館アーカイブ – [日本橋南北浜町八町堀辺図] ([嘉永6[1853]?])」(絵図下中央に土井大炊頭(土井利則)中屋敷が描かれています。)

国際日本文化研究センター – 日本橋北内神田兩國濱町明細繪圖(安政6・1859年)」(絵図右下に土井大炊頭(土井利則)中屋敷が描かれています。)

カメラ位置は中央区立箱崎公園南東交差点で、カメラ北西方向、南東方向が古河藩土井家中屋敷跡になると思われます。